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札幌地方裁判所 昭和40年(ワ)536号 判決 1971年12月24日

目次

当事者の表示

主文

事実

第一、当事者双方の求めた裁判

第二、請求の原因

〔一〕事件の概要

〔二〕違法行為

〔三〕損害

第三、請求原因に対する被告らの認否

第四、被告国の時効の抗弁及び原告らの認否

第五、証拠方法

理由

第一、事件の概要

一、事件の経過

二、検察官の芦別事件についての主張

三、第二審刑事判決

四、捜査、起訴、刑事公訴を行つた主な公務員

第二、芦別事件の中心となつた証拠物について

〔一〕いわゆる証第二一号発破器と証一二九号発破器について

一、証第二一号発破器

二、証第一二九号発破器

三、発破器の捜査

四、警察官、検察官の証第一二九号発破器取扱いについての作為の有無

〔二〕電気雷管について

一、当事者間に争いのない事実

二、各電気雷管の検証結果

三、証第一〇号雷管に関する大友鑑定、山本鑑定

四、腐蝕雷管の存在

五、訴外斉藤満由による雷管の保管

六、その他の証人、参考人の雷管についての供述

七、警察官、検察庁における雷管の保管と対照用雷管

八、結語

第三、参考人の取調べ及び供述について

〔一〕 総説

〔二〕 訴外中村誠の取調べ及び供述

一、訴外中村誠の逮捕、勾留及び取調べ

二、訴外中村誠の供述につき当事者間に争いのない事実

三、訴外中村誠の捜査段階での供述

四、訴外中村誠の刑事公判における供述

五、訴外中村誠の供述の検討

六、結語

〔三〕 訴外石塚守男の取調べ及び供述

一、訴外石塚守男の逮捕、勾留及び取調べ

二、訴外石塚守男の供述につき当事者間に争いのない事実

三、訴外石塚守男の捜査段階及び刑事公判における供述について

四、訴外石塚守男の供述の検討

五、結語

〔四〕 訴外藤谷一久の取調べ及び供述

一、訴外藤谷一久の逮捕、勾留及び取調べ

二、訴外藤谷一久の供述につき当事者間に争いのない事実

三、訴外藤谷一久の捜査段階及び刑事公判における供述について

四、訴外藤谷一久の供述の検討

五、結語

〔五〕 その他の関係人の供述について

一、徳田敏明の供述について

二、訴外原田鐘悦の供述について

〔六〕 被告国の偽証作為の主張について

第四、訴外井尻正夫、原告地主照の取調べ及び供述について

〔一〕 訴外井尻正夫の取調べ及び供述について

一、訴外井尻正夫の逮捕、勾留及び取調べ

二、訴外井尻正夫の供述について当事者間に争いのない事実

三、訴外井尻正夫の供述の検討

四結語

五、訴外井尻正夫の同二八年九月八日及び同月一〇日の裁判官の証人尋問の際の供述について

六、訴外井尻正夫のアリバイについて

〔二〕 原告地主照の取調べ及び供述について

一、原告地主照の逮捕、勾留及び取調べ

二、原告地主照の取調べ供述についての当事者間に争いない事実

三、原告地主照の供述内容

四、原告地主照に対する取調べ状況

第五、芦別事件の捜査及び刑事公判追行の違法性

〔一〕 被告国を除くその余の被告らの捜査、起訴、刑事公判追行において果した役割及びその意識

〔二〕 捜査行為の違法性及び被告ら(被告国を除く)の認識

〔三〕 検察官の起訴決定、刑事公判追行の違法性及び認識

第六、訴外井尻正夫、原告地主照らの蒙つた損害賠償その他

〔一〕 訴外井尻正夫、原告地主照らのうべかりし利益の喪失及び慰謝料

〔二〕 被告国以外の被告らの損害賠償責任について

〔三〕 被告国の時効の抗弁について

〔四〕 原告らの謝罪広告請求について

結語

別紙

主文

一、被告国、同高木一、同三沢三次郎、同金田泉は連帯して

1、(イ)原告井尻光子に対し三、〇三四、〇〇〇円、(ロ)原告井尻真光、同井尻光則、同井尻雪江に対し各六七八、〇〇〇円、(ハ)原告地主照に対し三、五六八、〇〇〇円、(ニ)原告渡辺武雄に対し三〇〇、〇〇〇円

2、右金員に対する被告国、同三沢は昭和四〇年六月二四日からの、被告高木、同金田は同月二五日からの各支払ずみに至るまでの年五分の割合の金員

を各支払え。

二、原告井尻光子、同井尻真光、同井尻光則、同井尻雪江、同地主照、同渡辺武雄のその余の請求、原告地主敬の請求をいずれも棄却する。

三、訴訟費用はこれを一〇分しその三を原告らの連帯負担とし、その余を被告国、同高木、同三沢、同金田の連帯負担とする。

四、この判決一項中被告国に対する部分は原告井尻光子は六〇〇、〇〇〇円の、同井尻真光、同井尻光則、同井尻雪江は各自一三〇、〇〇〇円の、同地主照は七〇〇、〇〇〇円の、渡辺武雄は六〇、〇〇〇円の各担保を供するときはその原告は仮に執行することができる。

事実

第一、当事者双方の求めた裁判

(一)原告ら

1、被告らは連帯して原告井尻光子に対し五、七九〇、〇〇〇円、同井尻真光、同井尻光則、同井尻雪江に対し各一、七六三、三三三円、同地主照に対し八、八七〇、〇〇〇円、同地主敬、同渡辺武雄に対し各五〇〇、〇〇〇円、及び右各金員に対する被告好田政一、同田畠義盛、同中村繁雄は昭和四〇年六月二三日からの、同国、同三沢三次郎は同月二四日からの、同高木一、同金田泉は同月二五日からの支払ずみに至るまでの年五分の割合の金員を支払え。

2、被告らは連帯で費用をもつて原告井尻光子、同井尻真光、同井尻光則、同井尻雪江、同地主照に対し、朝日新聞、毎日新聞、読売新聞の各朝刊全国版、北海道新聞、北海タイムスの各朝刊全道版に、それぞれ各一日、社会面に三段(但し朝日新聞、毎日新聞、読売新聞は二段)抜きで見出し「謝罪文」の三字は一号活字、字間各五号全角あき、記名及び宛名人の表示は三号活字、本文及び日附は四号活字で別紙文案のとおりの謝罪文の広告をせよ。

3、訴訟費用は被告らの負担とする。

との判決及び1項につき仮執行宣言。

(二)被告ら

1  原告らの請求を棄却する。

2、訴訟費用は原告らの負担とする。

との判決及び担保を条件とする仮執行免脱宣言。<以下略>

理由

〔以下理由中において引用書証の表示のためにつぎのような略記を用いる。刑事公判における証人の証言、=「証言」、刑事公判における被告人供述=「被供」、刑事公判準備期日における、又は公判前の裁判官に対する証人尋問調書=「証調」検察官に対する供述調書=「検調」、司法警察員に対する供述調書=「司調」。司法巡査に対する供述調書=「査調」。

又必要ある場合供述者又は供述録取者の氏名は右略記の上に附加し=例「訴外甲の被告乙検調」、「原告丙の訴外丁司調」、調書作成日付は数字のみで記載する=例「28.6.5検調」。

なお供述内容の引用に際しては長文化を避けるため適宜その趣旨に反しない限度で部分的に省略し又要約したものもある。

更に掲記証拠中認定事実に反する記載部分又は尋問結果部分は特段のことわりなくとも措信しえないものである。〕

第一、事件の概要

一事件の経過

(一)  いわゆる芦別鉄道爆破事件が発生したのは昭和二七年七月二九日であること。同日午後八時過頃芦別市字農区の国鉄根室本線滝川起点24.181キロメートル附近の鉄道線路がダイナマイトにより爆破され、同所の山側レール約三〇センチメートルが損壊されたこと、同日午後九時四六分頃には下り第九四六一号臨時貨物列車が同所を通過する予定であつたが、事件発生が通報されたため脱線顛覆事故には至らなかつたこと、なお捜査当局はこの事故現場から長さ約六〇センチメートル位の緑色被覆銅線一本、長さ約一〇センチメートル位の細い針金四本、火薬の臭のする一〇センチ平方メートル大のボール紙蓋一枚、電気雷管の脚線四本が発見されたと言明したこと。

(二)  事件発生後六日目の同年八月四日現場東方約三〇〇メートルのよもぎの草むらの中から鉄製ハンドルを結びつけた電気発破器一台、ボール紙箱在中の新白梅ダイナマイト一六本、電気雷管一本宛を各装填(挿入)した同上ダイナマイト五本、緑色被覆電線24.7メートルのもの一本(発破母線)その他雑誌二冊在中の風呂敷包み、リュックサック等の現場遺留品が発見されたこと。

(三)  捜査にあたつた警察官、検察官は現場遺留品中のダイナマイト、雷管、発破母線等は訴外油谷鉱業所で使用されていたものと判断したこと。

そのため捜査の対象は主として右訴外鉱業所及びその下請の各組におかれたこと。その結果同年八月上旬から九月上旬にわたり芦別市に居住していた訴外田口実、同高橋鉄男、同村上巌、同猿山洋一、同高橋源之丞らが発破器の窃盗及び賍物牙保の容疑で逮捕されたこと。同訴外人らが窃取し転売した発破器数台はうち一台を除いてその行方が明らかになつたこと。行方不明の一台は元訴外油谷鉱業所所有の鳥居式八七五〇号であり、それを同二六年一一月中旬頃石訴外猿山が窃取し、同訴外人の依頼により訴外高橋鉄男が通称亜東組芦別出張所長訴外石井清に売却したものであること。訴外猿山は右発破器は本件鉄道爆破事件の現場遺留品である発破器と同一のものであると確認したこと。訴外猿山、同高橋鉄男については右発破器の窃盗及び賍物牙保について同二八年三月頃それぞれ刑事上の処分が確定していること。しかし右発破器は訴外石井清が買受けた後の経路についてはついに明らかにされなかつたこと。

(四)  同二八年二月から三月中旬にかけて捜査官は芦別市内所在の訴外大興商事の抗内夫訴外石塚守男、同藤谷一一久、同中村誠らが鉄道爆破事件の発生前である同二七年六月下旬頃火薬を用いて魚獲したという事実を理由として右三名を逮捕し鉄道爆破事件について取調べたこと。そして右訴外藤谷及び同石塚の供述にもとづき同年三月二九日訴外井尻正夫と原告地主照が逮捕されたこと。訴外井尻は当時訴外大興商事の抗内夫であり、同会社の第二飯場の責任者であつたこと。原告地主は以前炭鉱に勤めていたが逮捕当時は騰写印刷業を営んでいたこと。その後同じ訴外大興商事の従業員である訴外徳田敏明、同原田鐘悦、同岩城定男のほか訴外大須田卓爾、同山内繁雄ら多数の者が逮捕され取調べを受けたこと。

(五)  検察官は訴外井尻正夫、原告地主照の両名を本件鉄道爆破事件の犯人として起訴したこと。即ち、鉄道爆破の準備行為の火薬所持に対し同年四月一八日に火薬類取締法違反として、同じく発破器の持出しに対し同年九月六日に窃盗として、そして鉄道爆破事件に対し同年九月一七日電汽車往来危険および爆発物取締罰則違反として、それぞれ札幌地方裁判所岩見沢支部に起訴したこと。

第一審の札幌地方裁判所岩見沢支部は同三一年七月一六日訴外井尻に対し懲役五年、原告地主に対し懲役一年の刑を言渡したこと。検察官の求刑は右両名とも懲役一〇年であつたこと。右裁判所支部の判決は訴外井尻に対しては窃盗については無罪それ以外は有罪、原告地主に対しては火薬類取締法違反については有罪、それ以外は無罪であつたこと。この判決の有罪部分については右訴外井尻、原告地主両名が、また無罪部分については検察官がそれぞれ札幌高等裁判所に控訴したこと。

訴外井尻正夫は控訴審係属中同三五年六月二三日死亡し、このため同年八月一一日公訴棄却の裁判がなされ確定したこと。

第二審の札幌高等裁判所は同三八年一二月二〇日検察官の控訴を棄却し、原判決中原告地主に対する有罪部分を破棄し、火薬類取締法違反について無罪の言渡をしたこと。そしてその判決理由中において訴外井尻、原告地主両名は本件鉄道爆破事件に関係ありとする証明はないとされたこと。検察官はこの判決に対して上告せず、同判決は同三九年一月四日確定したこと。

二、検察官の芦別事件についての主張

検察官が第一、二審刑事公判において主張した事実の大要はつぎのとおりであること。

(1)  昭和二七年六月二〇日午後二時半頃訴外石塚守男が当時止宿していた訴外大興商事の第二飯場通称井尻飯場の六畳の自室に帰つて来たとき訴外井尻の部屋を見ると原告地主、訴外大須田、名前の知らない男(後に訴外野田とわかる)、同井尻正夫、同訴外人の妻光子(原告)が集つていた。訴外石塚が自室に入り着替えをしていると原告地主の「火薬を都合してくれ」と頼んでいる声がした。これに対し訴外井尻は「火薬は自分が保管しているが、自分は持出せない」と答えていたこと。

(2)  同年六月下旬頃当時訴外大興商事が下請作業をしていた訴外油谷鉱業所の六坑坑外ズリ捨場附近の草原で訴外井尻、同石塚、同藤谷の三名が昼休みをしていた際訴外井尻は同石塚に対し火薬の入手を依頼したこと。

(3)  同年七月四日訴外石塚、同藤谷、同井尻昇は三坑で作業した。その際訴外藤谷と同井尻昇が六坑捲揚機室から火薬類(ダイナマイトと雷管)を運んで来て作業に使用した。同日夜、作業終了後、先に依頼を受けていた訴外石塚は使用残りの火薬類を井尻飯場に運び訴外井尻正夫に渡したこと。

(4)  同年七月一九日訴外井尻正夫は右の火薬を原告地主に渡した。同原告が右手に重箱のような四角い箱を風呂敷に包んで井尻飯場から出て来るのを訴外石塚が目撃したこと。

(5)  訴外井尻正夫は同年初旬頃の午後八時半頃、訴外大興商事の坑夫である訴外徳田敏明を伴い、訴外油谷鉱業所の二・三坑坑務所資材置場から新白梅ダイナマイト二〇本及び現場遺留品の雷管と同じ「5」の刻記のある雷管一〇本と電線を持出したこと。

(6)  訴外井尻正夫は同年七月上旬頃三坑堅入現場で訴外中村誠から長さ二五メートルの緑色被覆電線一本を受取つた。この電線は現場遺留品の電線と同じものであること。

(7)  訴外井尻正夫は同年六月一〇日頃、訴外大興商事の事務室で訴外原田鐘悦から鉄製の発破器用ハンドル一本を受取つた。このハンドルは現場遺留品のハンドルと一致すること。

(8)  同年六月中旬訴外大興商事の六坑・三坑で共通していた発破器が紛失した。右発破器は訴外井尻正夫が窃取し、鉄道爆破に使用したものであり現場遺留品の発破器と同一物であること。

(9)  同年七月一二日午前九時頃及び一三日午前一〇時頃井尻飯場において訴外井尻正夫は訴外石塚に対し「七月二九日平岸と茂尻の間で鉄道爆破をする。実行に参加するのは井尻、地主、大須田、山内、斉藤だ」という趣旨の話をし、訴外石塚にも仲入を勧めたこと。

(10)  同年八月七日七夕の晩、井尻飯場で飲酒した際、訴外井尻正夫は訴外石塚と同藤谷に対し七月二九日に訴外井尻、原告地主、訴外山口、同大須田、同斉藤が鉄道を爆破して来たこと及び火薬類、発破器、電線等の入手経路について話をしたこと。

(11)  鉄道爆破の二日位前、原告地主によく似た男が爆破現場附近を徘徊していたこと。

(12)  その後訴外井尻は訴外石塚、同藤谷に口止めをしたこと。

三第二審の刑事判決

第二審刑事判決は検察官の主張に対しつぎのように判断していること。

「そこでこの点に関する諸論、諸事実についてこまかに検討してみると、以下詳説するように本件にあつてはその組立てられた証拠関係において人的な面からも、また物的な面からも幾多の疑問に逢着する。すなわち、

第一、(イ)井尻が被告人(原告地主のこと、以下同じ)から火薬入手方の依頼を受け、これを入手するに至つた事情、(ロ)右火薬を被告人に交付し、これを本件鉄道爆破に使用したことに関し、就中重要な人的証拠たる石塚、藤谷らは比較的軽微な事犯のもとに長期にわたつて勾留され、その間供述に幾多の変転をかさねており、明らかに客観的証拠とも合致しない点もあつてその信用性は多分に疑いがもたれること。第二、井尻が徳田敏明を伴い、二・三坑坑務所から雷管(算用数字「5」を刻書してあるもの)やダイナマイトを持ち出したことが否定されること。第三、(イ)本件犯行現場附近に遺棄された証第二一号発破器はかつて大興商事に存したとの確証なく、所論事情のもとに井尻がこれを盗み出したものとは認められないこと。(ロ)証第一〇号証の雷管にしてもそれが本件鉄道爆破直後遺棄されたとするには疑が存すること。第四、山脇代美子の供述からは被告人によく似た男が本件鉄道爆破事件の数日前に爆破現場附近を徘徊していたものとは認め難いこと等に鑑みると検察官提出の全証拠をもつてしても本件鉄道爆破事件は被告人との関係において到底認めることができないとの結論に到達せざるを得ない。」。

第二審判決がなされたのは訴外井尻、原告地主が逮捕されてから実に一〇年九ケ月目であつた。

四捜査起訴、刑事公判を行なつた主な公務員

1、被告高木一、札幌地方検察庁次席検事、芦別事件捜査の総指揮に当つた他、訴外井尻正夫、同石塚守男を直接調べた。

2、被告三沢三次郎、札幌地方検察庁検事、同事件の捜査の責任者の一人であり第一審刑事公判にも立会つていた。

3、被告金田泉、札幌地方検察庁検事、同事件捜査の責任者であり第一審刑事公刑に立会つた。

4、被告好田政一、滝川区検察庁副検事、同事件の捜査に従事した。

5、訴外金子誠二、岩見沢区検察庁副検事、同事件捜査に従事し、第一審刑事公判には終始立会つた。

6、被告田畠義盛、国家警察札幌方面本部刑事部捜査一課指導係長警部、同事件発生直後芦別に派遣され、捜査に関与、一部司法警察職員の指導にあたつた。

7、訴外舘耕治、同本部刑事部捜査課員警部補、同事件の捜査に従事。

8、被告中村敏雄、同本部刑事部捜査課員巡査部長、同事件の捜査に従事。

9、訴外北島政次、芦別市警察署長警視、同事件捜査の責任者。

10  訴外芦原吉徳、同署捜査課長警部、同事件捜査の責任者。

11、訴外堂ノ本武、札幌地方検察庁検事、第一審刑事公判に立会い論告を行なう。

12、訴外吉良敬三郎、同押切徳次郎、同寺沢真人、同木暮洋吉、いずれも札幌高等検察庁検事、第二審刑事公判に立会う。

右公務員の中訴外北島政次、同芦原吉徳を除くその余の一三名はいずれも当時国家公務員であつた。そして被告高木、同三沢、同金田、同好田、同田畠、同中村、訴外舘、同北島ら八名は特に責任者として訴外井尻、原告地主に対する一連の捜査、刑事公判において積極的に重要な役割を果したこと。

以上の各事実は当事者間に争いがない。

第二、芦別事件の中心となつた証拠物について

一  いわゆる証第二一号発破器と証第一二九号発破器について

一証第二一号発破器

(一)  鉄道爆破事件の発生した昭和二七年七月二九日から六日経た同年八月四日爆破現場の東方約三〇〇メートルの個所の草むらから発見された現場遺留品の中に発破器一台があつたことは前記のとおりである。この発破器は検甲第一号発破器である(以下この発破器を刑事公判での呼称にならい証第二一号発破器又は八七五〇号発破器という。)

(二)  当裁判所のなした検証結果によれば右発破器は電気発破器であつて全体に薄ねずみ色金属製(ジュラルミンと思われる)の直方体であり、その底面における長辺は12.5センチメートル、幅6.2センチメートル、高さ12.8センチメートル、重量は2.46キログラムで、上部蓋の中央部にはハンドルの挿入筒が、そして一方の側寄りには黒色の台の上に導線を連結するターミナル二個が並んで取付けられており、又その反対側にはプレートが脱落したとみられる窪があり、その長辺は5.8センチメートル、短辺3.9センチメートルである。更に底部には鋳型痕とみられる直経約2.5センチメートルのややずれて二重又は三重になつた円型の痕跡がみられ、又発破器側面上部には携帯用の黒褐色の皮バンドが鋲状の止め金によつてとめられている。又内部を見るにそのコイル部分はやや黒光のする布様のものによつておおわれている。

二証第一二九号発破器

(一)  後記認定のとおり訴外油谷鉱業所所有の発破器であつて同二七年四月頃訴外大興商事が借用し以後同訴外商事が使用していたものである。右発破器は検甲第二号発破器である(以下この発破器を刑事公判の呼称にならい証第一二九号発破器又は一五三五九号発破器という)。

(二)  当裁判所のなした検証結果によれば、右発破器も電気発破器であつて銅或は真鋳と思われる茶褐色の金属に全体にアルミ色のメッキを施した直方体であつて、右メッキは部分的に薄くなり又剥げ落ちて地金の見える部分もあるが全体的にはなお鈍いねずみ色を呈している。その底面における長辺は11.0センチメートル、幅6.1センチメートル、高さ12.2センチメートルであつて証第二一号発破器に比べやや小型ではあるが重量は逆に2.62キログラムでやや重い。上部蓋の形態は右証第二一号発破器と全く同型で中央部にハンドル挿入筒があり、一方の側には黒色の台の上に導線を連結するターミナル二個が並んで取付けられており、又その反対側にはプレートでなく直接蓋上面に「鳥居印電気発破器番号一五三五九号日本火薬製造株式会社発破器製造部」などと刻記してある。又両側面上部には携帯用の提手をとりつけるための鈎型の掛金がつけられている。又その内部を見るにそのコイル部分は黒色の布にて覆われている。

三発破器の捜査

(一)  証第二一号発破器の捜査

1、捜査官は鉄道爆破事件発生後現場遺留品である証第二一号発破器の出所を捜査したこと、そしてその間訴外猿山洋一が右発破器を同二六年一一月中旬頃訴外油谷鉱業所で窃取し、同訴外人の依頼で訴外高橋鉄男がこれを訴外石井清に売却した事実が明らかになり、検察官被告好田政一は右訴外高橋を起訴し、その結果同訴外人は同二八年三月三一日滝川簡易裁判所で懲役一年罰金三、〇〇〇円に処せられ、又訴外猿山は少年のため家庭裁判所で保護処分になつたことの各事実は当事者間に争いがない。

2、甲第五三九号証ないし第五四四号証、第五四六号証ないし第五五八号証(いずれも訴外猿山、同高橋、同石井らに関する窃盗、賍物牙保、同故買事件の捜査等一件記録)、同第二九九号証、第三二三号証、第三三一号証(いずれも被告田畠の証言)、同第二八四号証、第二八七号証、第三五一号証(いずれも訴外芦原吉徳の証言)、同第三〇五号証、第三五三号証(いずれも被告好田の証言)、同第一九一号証、第二二五号証(いずれも訴外佐藤政男の証言)、同第五八七号証(電気機器故障及び受付修理状況記入簿)、同第五五九号証(訴外高橋鉄男に対する賍物牙保事件の起訴状)本件口頭弁論期日及び証拠調期日における証人中田正、同芦原吉徳、被告田畠義盛、同三沢三次郎、同高木一の各尋問結果のほか前記当事者間に争いのない事実を綜合すると

現場遺留品として発見された証第二一号発破器は訴外油谷鉱業所の所有であり、型は鳥居式一〇発掛その番号は八七五〇号であつて、同訴外鉱業所が二坑三片作業場で使用中、同二六年一一月中旬頃訴外猿山洋一が同坑三片の火薬置場から窃取し、これをその頃訴外高橋鉄男に売却を依頼したところ、訴外高橋は右訴外鉱業所の下請会社であつた訴外亜東組の専務訴外石井清に売却したこと、右事実は前記現場遺留品の発見された同二七年八月中に既に捜査官の知るところとなつていたこと(因みに甲第五四三号証の検察官の訴外猿山に関する少年事件送致書は同年八月一〇日付である)、しかしその後の捜査にもかかわらず右証第二一号発破器の訴外石井清から先の経路は遂に解明しえず不明のまま終つたこと、

の各事実を認めることができる。

(二)  証第一二九号発破器の捜査

1、昭和二七年六月中旬頃訴外大興商事では六坑・三坑現場で使用していた発破器一台が紛失したこと、捜査官は同訴外商事の発破器保管責任者訴外福士佐栄太郎を取調べて供述調書を作り、かつ盗難届を提出させたこと、又同二八年二月頃右三坑現場で発破器一台が発見されたこと、の各事実は当事者間に争いがない。

2、甲第二四号証、第一八一号証(いずれも訴外福士佐栄太郎の証調)、同第二四五号証(同訴外人の証言)、乙第三九号証(同訴外人の被告三沢検調)、同第四二号証(同訴外人の訴外金子検調)、同第二九四号証(同訴外人の訴外藤田司調)、甲第一八〇号証(訴外京家清蔵の証調)、同第三一三号証(同訴外人の証言)、同第一八五号証(訴外浜谷博義の証調)、同第二三二号証(同訴外人の証言)、乙第二〇七号証(同訴外人の司調)、同第二一二号証(同訴外人の訴外中田司調)、甲第一九二号証(訴外鷹田成樹の証調)、同第一一三号証、第二二六号証(いずれも同訴外人の証言)、乙第二〇号証(同訴外人の被告好田検調)、同第二一三号証(同訴外人の司調)、同第一九九号証(訴外出町幸雄の司調)、甲第一八九号証(訴外斎藤伝三郎の証調)、乙第二六九号証、第二七〇号証(いずれも同訴外人の査調)、甲第一八四号証(訴外中田正の証調)、乙第二七六号証(訴外大野昇の訴外中田司調)、甲第五六七号証(訴外酒井武所有の手帳)、同第五七〇号証(訴外北崎道夫所有の手帳)、本件口頭弁論期日における証人福士佐栄太郎、同京家清蔵、同中田正、同芦原吉徳、被告三沢三次郎の各尋問結果のほか、前記当事者間に争いのない事実を綜合すると

(1) 証第一二九号発破器も訴外油谷鉱業所の所有であるが、昭和二七年二月頃訴外大興商事が訴外鉱業所から六坑副斜坑を下請した後、同年四月訴外大興商事の発破係員であつた訴外本間亀老が訴外鉱業所の作業責任者であつた訴外京家清蔵から借り受け、その後訴外商事の訴外小松田発破係員更に訴外福士佐栄太郎発破係員に引続がれ、六坑副斜をはじめ三坑堅入、向堀などの作業現場で交互に持ち廻りで使用されていたこと、そして、普段その保管は六坑捲揚機室に置かれていたこと、同年六月二〇日頃三坑堅入坑内夫であつた訴外岩城定男が同坑の作業で右発破器を使用した後、その所在が不明となり紛失したこと、右発破器の紛失はその直後頃発破係員であつた訴外福士が坑内を巡視中三坑に発破器のハンドルだけが落ちていたことから気付いたこと、その後訴外福士及びその他の訴外商事の係員達が色々と坑内夫らに尋ねてみたが結局発見できなかつたこと、

(2) 本件鉄道爆破事件につき訴外大興商事関係者にも嫌疑をもつて捜査していた捜査官は同二八年に入つて(もつとも同二七年中にも若干はなされているが本格的には同二八年に入つてから)同訴外商事使用の発破器の出入移動状況についても調査を進めるとともに右発破器の紛失についても種々関係従業員多数を取調べたこと、右紛失発破器の直接の保管責任者であつた訴外福士も又捜査官の取調べを受け、発破器の紛失状況について供述したこと、その際訴外福士は右紛失発破器の番号は一五三五九号であると述べたこと、そして司法警察員訴外芦原吉徳の求めにより結局訴外福士は右発破器盗難届を書いて提出したこと、その際同届には右発破器の番号を記入しておいたこと、

(3) しかし同二八年一〜二月頃(訴外大興商事は同二七年一〇月頃経営不振から解散していた)訴外油谷鉱業所の保安監督員であつた訴外斎藤伝三郎が前記三坑で坑道のズリ(堀つた岩石の破片)を片付けているうち矢木の後側に埋れていた発破器一台を発見し、これが一五三五九号の番号のある発破器であつたこと、発見当時は右発破器には革の提手もついていたが使いものにならない位腐つていたこと、同発破器はその後訴外油谷鉱業所に保管されていたこと、

(4) 捜査に従事していた警察官及び検察官はおそくとも同二八年四〜五月頃には右発破器発見の事実を知り、司法警察員訴外中田正はその頃右発破器を訴外油谷鉱業所より任意提出を受けて領置し、その後右発破器は本件芦別事件の証拠品としてその捜査記録とともに札幌地方検察庁岩見沢支部に送致され、以後同庁支部に保管されていたこと、

の各事実を認めることができる。

(三)  発破器についての刑事公判での検察官の、及び本件口頭弁論での被告国の主張

1、第一審刑事公判での冒頭陳述(第一回公判昭和二八年一〇月九日)において検察官は「昭和二七年六月中旬頃大興商事の六坑副斜及び三坑の作業現場で当時使用していた電気発破器が右現場又はその附近において盗難にかかつたこと、右発破器は現場遺留品として発見された発破器と同一物であると認められる」と主張し更に「その頃井尻正夫が三坑堅入現場から右発破器を窃取し、これを背負袋に入れて井尻飯場に持帰り、同飯場の物置に隠匿した」と主張したことは当事者間に争いがない。

2、甲第二一一号証(第一審刑事公判における検察官の論告要旨)、同第五六六号証(第二審刑事判決)によればその後の検察官の主張は次のように変化が見られるがその基本的な構造(電気発破器一台が訴外商事から訴外井尻らによつて窃取されたとすること)は第二審弁論に至るまでほぼ同様である。即ち

(1) 右甲第二一一号証によれば検察官は第一審第六〇回刑事公判(昭和三一年六月九日)の論告に際し「もつともこの間昭和二七年八月上旬から同年九月上旬にわたり田口実をはじめ高橋鉄男、村上厳、猿山洋一及び高橋源之丞らが油谷鉱業所二坑坑内現場から鳥居式発破器を窃取した事件を検挙したが、その賍品はいずれもその処分先から発見されて明瞭となり、本件との関連は全然認められなかつたものである。」と述べたことが認められる。

(2) つぎに甲第五六六号証(第二審刑事判決)によれば第二審刑事公判での検察官の主張は証第二一号発破器はかつて訴外油谷鉱業所にあつたこともあるが(この点同発器破が八七五〇号であることを認めている趣旨と解される)何らかの経路で訴外大興商事に入り同訴外商事にあつた三個の発破器のうちの一台であつた、そして昭和二七年春頃から同年六月中旬頃までの間同訴外会社ではうち二台の発破器が紛失し、うち一台は証第一二九号発破器であり、他の一台は証二一号発破器であつて、後者が同年六月中旬まで六坑・三坑で共用されていたこところその頃三坑附近で訴外井尻正夫によつて窃取された、というにある。

右同号証によれば第二審刑事判決で裁判所は訴外大興商事に存在した発破器の個数及びその使用状況などを検討した上右訴外商事に存在した発破器は前記埋没後発見された証第一二九号発破器も含めて三個であるが証第二一号発破器が同訴外商事に存在した可能性はないと否定したことが認められる。

(3) 本件口頭弁論において被告国の主張するところは(準備書面(八)、(九))、証第二一号発破器は番号八七五〇号と推定せられ、そして訴外大興商事には前記三個の発破器のほかさらにもう一個の計四個の発破器が存在した可能性もあり証第二一号発破器が右訴外商事に存在し訴外井尻正夫によつて窃取された可能性は否定されないというにある。

(四)  訴外大興商事で使用した発破器についての検討

1、先づ検察官が刑事第一審論告で主張した点については論旨は必らずしも明確でないが仮に現場遺留品たる証第二一号発破器はかつて訴外油谷鉱業所に存在した八七五〇号ではなく、その他の何らかの発破器で訴外大興商事で使われていた発破器であるとの趣旨ならばそれは前記(一)で認定したとおり事実に反するものといわなければならない。

2、つぎに第二審刑事公判での検察官の、及び本件口頭弁論における被告国の主張について見るに

前記(一)2及び(二)2掲記の各証拠のほか甲第一〇号証、第一五七号証、第二一四号証(いずれも訴外中村誠の証言)、同第一三号証、第四八五号証、第四八七号証(いずれも同訴外人の証調)、同第四八九号証(同訴外人の訴外金子検調)、乙第八号証(同訴外人の被告三沢検調)、同第一六八号証、第一六九号証(いずれも同訴外人の被告中村司調)、第一七一号証、第一七六号証、第一七八号証(いずれも同訴外人の司調)、甲第五六号証、第二二七号証(いずれも訴外岩城定男の証言)、乙第一号証(同訴外人の被告三沢検調)、同第二号証、第三号証(いずれも同訴外人の訴外金子検調)、同第一九二号証ないし第一九五号証(いずれも同訴外人の訴外中田、被告中村ら司調)、甲第八四号証(訴外酒井武の証言)、乙第三六号証(同訴外人の訴外金子検調)、同第三五号証(訴外出町幸雄の訴外金子検調)、同第一九九号証ないし第二〇一号証(いずれも同訴外人の訴外芦原ら司調)、同第二一〇号証(訴外浜谷博義の被告好田検調)、同第二〇九号証(同訴外人の訴外中田司調)、同第二〇八号証(同訴外人の査調)、甲第九四号証(訴外横井誠の証言)、同第一二六号証(訴外三好吉光の証言)、同第一二号証(訴外大野昇の証言)、同第一二八号証、第二三一号証、第二三五号証(いずれも訴外外記重弘の証言)、乙第一九七号証(同訴外人の被告中村司調)、甲第七九号証(訴外坂下真弥の証言)、乙第五三号証(同訴外人の訴外金子検調)、同第五四号証(同訴外人の被告三沢検調)、甲第六〇一号証(訴外小松田幸雄の訴外金子検調)、乙第二七八号証(同訴外人の訴外中田司調)、甲第八三号証(訴外佐藤光男の証言)、乙第九三号証(同訴外人の訴外金子検調)、同第九六号証(同訴外人の訴外小関検調)、同第三〇五号証(訴外野城利治の訴外中田司調)、同第二七三号証(訴外川辺久太郎の訴外中田司調)、同第三一〇号証(訴外山家広七の訴外中田司調)本件口頭弁論期日における証人中村誠、同岩城定男の各尋問結果を綜合すると

(1) 訴外大興商事の前身である訴外石狩土建興業株式会社(以下訴外石狩土建という、同訴外会社は昭和二七年四月大興商事に名称を変更した)には昭和二六年九月頃訴外油谷鉱業所から借用して使用していた発破器一台のみあつたところ、その頃同訴外鉱業所からの要求でこれを返還したので一台もなくなつたこと、そこで訴外石狩土建所長代理野城利治は同年一〇〜一一月頃知り合いの訴外川辺久太郎を通じて訴外三井芦別鉱業所の用品係訴外山家広七から同訴外三井芦別鉱業所の廃品発破器の中で修理して使えそうなものを相次いで二台譲り受け訴外大興商事で使うようになつたこと、右はいずれも鳥居式一〇発掛の発破器であつたこと、

(2) 訴外大興商事では右発破器を第二露天現場で使つていたこと、右発破器のうち一台は古く(以下これを露天旧発破器という)故障し勝ちでありほとんど使用されず同訴外商事の事務所で保管されていたこともあつたこと、他の一台はこれに比べてやや新らしく(以下これを露天新発破器という)、右露天の作業現場では主にこの方が使われていたこと、発破器番号は露天旧発破器の方は九三三〇号であること(しかし露天新発破器の番号を認めるに足る証拠はない)、

同二七年三月〜四月頃第二露天現場ナンバー五坑で崩落があり他の道具類とともに右露天新発破器は埋没したこと、以後右露天現場では露天旧発破器の使われたこともあつたようであるが主として安全灯の電池が使用されていたこと、

(3) その他に同二六年一二月頃訴外大興商事が訴外油谷鉱業所から一坑・三坑を下請けした際訴外福士佐栄太郎は訴外鉱業所の山川区長から発破器一台を借用して使用したこと、甲第五七〇号証(訴外北崎所有の手帳)乙第一三五号証(同訴外人の検調)によれば右発破器の番号は一五七五六号であつたとみられること、なお同発破器は同二七年三月訴外鉱業所に返還されたこと、

(4) 同二七年二月訴外大興商事が訴外油谷鉱業所から六坑副斜(吊れ下ろし坑とも呼ばれていた)を請負つたが、訴外福士の前項の発破器返還で同坑作業に使用する発破器がなくなつたことから、同年四月訴外商事の発破係員が前記(二)2(1)記述のとおり訴外鉱業所坑内主任訴外京家清蔵から発破器一台を借り受けたこと、この発破器も鳥居式一〇発掛で番号は一五三五九号であること(同発破器のその後の使用状況及び紛失、発見の経緯は前記(二)2で記述したとおりである)、

(5) 露天旧発破器は前記のとおり訴外大興商事の事務所で保管されていることが多かつたが、同年四月頃と同年六月頃の二回にわたつて訴外外記重弘が修理し、その際それまでついていた提革がなかつたので発破母線をとりつけて提手にしたこと、

六坑・三坑で使用されていた一五三五九号発破器も余り調子がよくなかつたことから同年四〜五月頃訴外商事の事務所から露天旧発破器を六坑捲揚機室に持つて来てみたが、やはり使用不能で数日間置いただけで再度事務所に返還されたということもあつたこと、

(6) 同年六月末日で訴外大興商事は六坑副斜の作業を打切り、同年七月一日からは訴外熊谷組が同坑の作業を引継いだが、この際訴外油谷鉱業所は訴外商事に対し貸与中の発破器の返還を求めたこと、ところが当時訴外商事が訴外鉱業所から借用していた一五三五九号発破器は埋没紛失していて返還できなかつたため代りに同訴外商事の事務所にあつた露天旧発破器を同年七月から八月上旬頃までの間に訴外鉱業所に代納したこと(もつとも甲第五六七号証(訴外酒井武所有の手帳)には「京屋氏より発破器の変更」なる記載があり、これは代納した右発破器が貸与した発破器と異ることからその変更方を求められた趣旨にも解され、他方前記甲第八三号証、第九四号証、第二四五号証によれば右露天旧発破器が同二七年九月頃の訴外大興商事が解散する頃迄まだ訴外商事にあつたのではないかと見られるふしもあるので、或は右訴外京家清蔵の変更要求により訴外商事では後記(7)で記述する札幌本社からの取寄せた新らしい発破器と取替えて訴外鉱業所に返納したのではないかとも見られる)

(7) 露天旧発破器を訴外油谷鉱業所に代納した後訴外大興商事には発破器が皆無となつたので同年八月上旬頃同訴外商事は札幌本社から新らしい発破器一台を取寄せたこと、

の各事実を認定することができる。

(五)  被告国の指摘する発破器特徴の証拠について

1、被告国は現場遺留品たる証第二一号発破器が訴外大興商事に存在した可能性があるの主張を裏付ける事実として、右証第二一号発破器の特徴として同発破器はジュラルミン製であること、ナンバープレートが剥離欠損していること、提革の止め金がボタン式であるのに反し、右は同訴外商事が訴外油谷鉱業所から借用し、六坑・三坑で使用していた証第一二九号発破器が銅の上にメッキをしたものであり、ナンバーは打込み式になつて刻記されており、又提革の止め金が鈎型になつていて異つていることを指摘し、右証第二一号発破器の特徴に合致する発破器の存在を述べる参考人、証人等の調書を援用する。

(準備書面(八)、(九))

2、なる程甲第一〇号証(訴外中村誠の証言)、同第四八五号証(同訴外人の証調)、同第四八九号証(同訴外人の訴外金子検調)、乙第一七六号証(同訴外人の司調)、甲第三〇号証(訴外藤谷一久の証言)、同第四四号証(訴外北崎道夫の証言)、乙第一三四号証(同訴外人の訴外金子検調)、甲第五二号証(訴外浜谷博義の証言)、同第一八五号証(同訴外人の証調)、乙第一三号証(同訴外人の被告金田検調)、甲第一一三号証(訴外鷹田成樹の証言)、同第一二八号証(訴外外記重弘の証言)などには証第二一号発破器の特徴に符合する記載のあることが認められる。

3、(1)しかしながら、鳥居式一〇発掛発破器は前記のような諸特徴を除けばその他はほぼ同一構造の同型のものであつて、しかも前掲各証拠からは当時訴外油谷鉱業所をはじめその下請会社、組の間でも多量に使用されていた一般的な発破器であつたことが認められ、又証第二一号発破器も証第一二九号発破器もその器体の色合は後者のメッキの剥げ落ちた部分を除けばいずれも同じ灰銀色であり、又証第二一号発破器のプレート剥離の点も、前掲甲第五三九号証ないし第五四四号証、第五四六号証ないし第五五九号証(いずれも訴外猿山関係の捜査記録)からも当時訴外油谷鉱業所又はその下請会社、組ではしばしば発破器の窃取及び故買が行なわれそしてかような賍品も出廻り使用されていたことも認められ、かつ当裁判所の証第二一号発破器の検証結果からはそのナンバープレートなるものはせいぜい厚さ0.5ミリメートル内外のものと推定され、これを直径約三ミリメートルの鋲で四隅を止めてある程度のものであれば、故意にそのプレートを剥離させ(例えば盗品の場合等)又使用中自然に脱落する場合も稀なこととも思えず、時折プレートの欠損した発破器も使用されていたものと考えられ、又発破器の提革の止め金の点もごく些細な部分に過ぎず特段問題になる事がなければその差異に気付き記憶に留める程のものでもない。

(2) 更に一般的に云えば発破器なるものは通常暗い坑道内で使用されるものであり、しかも多くは炭塵、岩粉、泥などにまみれているものであり、又本件芦別事件の場合においても前記した発破器を観察した証人参考人達は鉄道爆破事件などは全く予期せぬ状態で観察しているのであれば、その知覚、記憶も極めて散漫に終るものといわなければならない。右のような事実は甲第一八〇号証、同第三一三号証(いずれも京家清蔵の証調及び証言)、同第一九一号証(訴外佐藤政男の証調)などによつても自ら発破器の保管責任者或はその修理係であつた者さえもいずれも「どの発破器も同じように見えてわからない」と述べていることからも容易にうかがえるところである。そして又甲第一八五号証(証人浜谷博義の証言)に見られるように自分は発破器の番号の記憶がないということから容易に供述者をして番号が消えていたのではないか、ナンバープレートがなかつたのではないかといつた考えを引出す傾向も一般的にありうることは否定できない。そして更に捜査の段階においてかような記憶の瞹昧な証人、参考人達に対し捜査官が特定の発破器を呈示すれば、その証人らにとつては何となくその発破器らしく思えて来るようになり、又後日に至つてもその諸特徴が銘記付けられる結果を惹起することも充分考えられることである。

(3) 就中、前記したように本件芦別事件においては訴外大興商事の六坑・三坑で使用されていた発破器は証第二一号発破器であるか或は同第一二九号発破器であるか或はその両者ともどもに使用されていたかの点は事件の帰趨を決定する重要な事実であり、しかも右両発破器がいずれも捜査官の手許に押収、保管されていたのにもかかわらず、前掲各証拠のほか本件口頭弁論に提出された各証拠の中でも捜査の段階で捜査官が右両発破器を供述者に共に示して対比せしめた上で供述を求めた形跡は皆無であるのみならず、証第一二九号発破器すら供述者に呈示されたことは稀であつて(乙第四二号証では訴外福士佐栄太郎は証第一二九号発破器を警察で見せられたと検察官に述べているのと、同第二七〇号証によれば警察官が右発破器の発見拾得者である訴外斎藤伝三郎にこれを示して供述を述めているのがうかがえる程度である)大多数の供述者にはことごとく証第二一号の発破器のみが呈示されて供述を求められていることが認められる。(なお甲第四八七号証で訴外中村誠が「一週間ばかり前に見せられた発破器」と云つているのは証第一二九号発破器かどうかわからない。)しかも証第一二九号発破器が提出された第一審第五九回刑事公判以後はいずれの証人も証第二一号発破器が六坑・三坑に存在したことを否定していることが認められる。(なお訴外中村誠の捜査段階での供述は後記第三(一)で改めて検討する。)

4、従つて被告国の採用する前記の各証人、参考人の供述からはそれが直ちに証第二一号発破器と結びつくものかどうか断定しえず、前記(四)認定を左右するに足りない。

(六)  以上の事実から見て前記(四)で認定したとおり証第二一号発破器が訴外大興商事に存在したという可能性は否定せざるをえず、結局同発破器が訴外大興商事から窃取されたとの事実も又否定せざるをえない。

四、警察官、検察官の証第一二九号発破器取扱いについての作為の有無

1、以上の事実を前記した刑事公判における検察官の「昭和二七年六月中旬訴外大興商事の六坑副斜及び三坑現場附近で発破器一台が窃取され、右発破器は芦別事件の現場遺留品として発見されたものと同一である」との旨の主張にあてはめてみると、前段の発破器は証第一二九号発破器に該当し、後段の発破器は証第二一号発破器なのであるから、これは明らかに事実に反した主張であるといわなければならない。

2、ところで前記したように本件芦別事件の捜査のごく当初の段階において既に現場遺留品たる証第二一号発破器の番号は八七五〇号であると判明していたことが認められ、又訴外大興商事の六坑・三坑で使用し紛失した発破器は同二七年九月一日には訴外福士佐栄太郎から番号一五三五九号であつたと知らされ(乙第二九四号証訴外福士29.9.1付被告田畠司調)ていたのであるから捜査の当初より両発破器が結びつく可能性は極めて薄かつたものといわなければならない。(そしてその後の捜査の過程でもこの両番号自体が瞹昧になつた形跡は見当らない)しかるに検察官は前記のとおり刑事公判では右両発破器を特定する発破器番号を明らかにしないで右両発破器は「同一の発破器」即ち一個の発破器であると主張した。(因みに甲第五五九号証によれば検察官被告好田の訴外高橋鉄男に対する27..9.10付賍物牙保事件起訴状には公訴事実第二に「鳥居居式一〇発用発破器(番号八七五〇)」と明記されているのにかかわらず、甲第一号証の訴外井尻、原告地主に対する発破器窃盗の起訴状には単に「大興商事所有の鳥居式一〇発掛電気発破器一台」とのみ記載されているだけであり、又甲第三号証の検察官の冒頭陳述にも全く発破器番号の記載がない。そしてこの証第二一号発破器の番号が八七五〇号であるということが訴訟関係人に明らかになつたのは実に起訴後八年有余を経た第二審第一九回刑事公判においてはじめてである。(この点甲第二八四号証より認む)そしてこのことを前記三、(二)、2(2)で記述したように司法警察員訴外芦原吉徳が既に捜査の段階で訴外福士佐栄太郎に対しあえて発破器の盗難届を出させたという事実、又訴外大興商事関係者から証第二一号発破器に該当する発破器についての盗難届、紛失届などが提出された形跡のないことも併せ見るならば、警察官及び検察官は証第一二九号発破器自体を法廷に顕出せず、証第二一号発破器が訴外大興商事に存在して紛失したことに作為しようとしたのではないかと疑われてもやむをえないものである。けだしもし証第一二九号発破器が法廷に提出されることがなかつたならば訴外福士がいかに六坑・三坑で使用していた発破器は一六三五九号であつたと述べたとしてもこれを裏付けるに足る証拠はなく(右発破器番号を記載した訴外北崎道夫所有の手帳も又後記する如く提出されなかつた)訴外福士の右供述は真実であるのか或は単に同訴外人の記憶違いに過ぎないのか確認しようがなく、そして前記三、(五)、2で列挙した証第二一号発破器の特徴に類似した発破器を見たとする各供述と相俟つて裁判所をして前記検察官の主張を認容せしむるに至ることも又充分可能であつたからである。

本件口頭弁論期日及び証拠期日において被告三沢、同高木は証第一二九号発破器は「事件に関係ないと思つた」とか「その存在を知らなかつた」と弁疏しているけれども、右発破器の存在は第二審刑事判決の指摘をまつまでもなく本件芦別事件の帰趨を決定するに足る重要証拠であつたことは明らかである。

3、司法警察員訴外中田正がおそくとも昭和二八年四〜五月頃には右証第一二九号発破器を訴外油谷鉱業所から押収して芦別市警察署に領置し、その後芦別事件の他の証拠品とともに札幌地方検察庁岩見沢支部に送付され以後同庁支部において保管されていたことは前記三、(二)、2(4)で記述したとおりであるが、甲第二〇五号証(第一審第五九回刑事公判調書)、同第五九一号証(押収目録)からは同三一年六月五日第一審第五九回刑事公判においてようやく検察官から提出されたことが認められる。右提出については甲第一八五号証(訴外浜谷博義の証調)、同第一八九号証(訴外斎藤伝三郎の証調)などから見ても結局弁護人らの強い要請の下に提出されるに至つたものとみられる。

そしてその後は後記第五、(二)、三で記するようにいずれも既に捜査段階で押収又は作成されていた証拠物の多くが刑事公判廷に提出され発破器に関するものとしては第二審第三一回及び第三二回刑事公判で証第二一号発破器に関する前記訴外猿山らの発破器窃盗、賍物牙保等捜査記録、電気機器故障及び受付修理状況記入簿が検察官によつて提出され、又同第四三回刑事公判で訴外酒井武所有の手帳(その押収は昭和二八年九月一五日甲第三八九号証、第三九〇号証)第四五回刑事公判で証第一二九号発破器に関する訴外北崎道夫所有の手帳(その押収は同二八年七月三一日乙第一三五号証)が検察官から提出されてはじめて前掲各証人、参考人等の捜査段階での供述及び刑事公判での証言等を裏付け検討することができるようになり、併せて証第二一号発破器と証第一二九号発破器の異同、又その移動経路、使用状況等を明確に認定しうるに至つたものであることは第二審刑事判決(甲第五六六号証)に徴して明らかである。

4、そうすれば捜査官が証第一二九号発破器を昭和二七年から同三一年まで約四年余りの間押収したまま刑事公判に提出しなかつたということは後記第五でも記述するように捜査官が単に善意で事件に無関係であると信じていたとか或は誤つて忘却していたとかの問題ではなく正に刑事被告人ら、及びその弁護人らの同発破器の存在及び証拠としての利用を不能ならしめる意志の下になされたのではないかとの疑いが強く、かりに捜査官がその弁疏するような事情により、その証拠価値を誤つて過少評価していたものとすれば、その判断はとうていその合理性を肯定できないような非常識なものであつて、少なくとも重大な過失を免れないというべきであろう。

二 電気雷管について

一昭和二八年八月四日現場附近のよもぎの草むらから発見された遺留品のなかに五本の電気雷管があつたこと、この雷管の管体には算用数字で「5」と刻記されていたこと、検察官は刑事公判において右雷管は訴外井尻正夫が訴外徳田敏明とともに同二八年七月初頃訴外油谷鉱業所二・三坑坑務所から持出したものであると主張したこと、この雷管の警察段階での保管責任者は司法警察員訴外芦原吉徳及び司法巡査鑑識係訴外打田清であつたこと、検察官が刑事公判において証拠物として現場遺留品の電気雷管であるとして提出した雷管五本にはその管体にはほとんど錆がなかつたため果して爆破事件当夜から遺留品発見までの七日間ダイナマイトに挿入されていたものかどうか、又その提出された雷管五本のうち四本の頭部が短く欠損しているのは何故かが刑事公判における争点の一つとなつたこと、検察官は刑事公判において雷管の頭部の欠損は雷管の腐蝕が頭部から進行し、そのため脱落したと主張したこと、第一審及び第二審刑事公判において鑑定人訴外大友薫は右雷管がダイナマイトに挿入されていたのはせいぜい二四時間程度であると述べたこと、第二審第二七回刑事公判において検察官訴外寺沢真人は雷管の頭部が脱落した原因は人為的かも知れないが、人為的に切断されたとしても誰がいついかなる理由で切断したかは知ることができない、さらにこの切断は裁判所に提出された後においてなされたかも知れないと主張したことの各事実は当事者間に争いがない。

二先づ、本件口頭弁論に提出された各雷管の検証の結果について記るすに

1、検甲第五号電気雷管五本(以下刑事公判での呼称にならい証第一〇号電気雷管という。なお同雷管はさらに枝番号で分類され証第一〇号の一ないし五となつている。)いずれもやや光沢のある赤銅色の金属製円筒で直径が六ミリメートルである。証第一〇号の五の管体の長さは3.7センチメートル、同号の一ないし四の管体はいずれも上部が欠損していてその長さは3.0ないし3.1センチメートルである。同号の二、四、五には管体を横にした状態で上部のくびれた部分の下の方に斜めに「5」のアラビア数字(大きさ三ないし四ミリメートル)が針状の鋭利なもので刻まれているのをかすかに判読することができるが、同号の一、三については数字らしいものを検することができない。同号の五の雷管には直径一ミリメートルの被覆導線(脚線)二本が直結されており、その他の雷管には同種導線が雷管管体の上部にまきつけられている。

2、検甲第六、七、八号(以下前同様に証第八二、八三、八四号と、又単に対照用雷管ともいう)電気雷管各五本、これらはいずれも光沢ある黄褐色の金層製円筒であり長さ3.7センチメートル、直径六ミリメートルでそれぞれ管体上部に直径一ミリメートル、長さ約1.5メートルの被覆導線(脚線)二本が直結されている。各管体上部附近には本体を横にした状態で斜めに「5」というアラビヤ数字(大きさ三ないし四ミリメートル)が針状の鋭利なもので刻まれている。

三証第一〇号雷管に関する大友鑑定、山本鑑定

(一) 本件芦別事件が昭和二七年七月二九日発生し、その後六日間を経た同年八月四日現場東方の草むらから発見された遺留品の中に新白梅ダイナマイト各一本宛に挿入装填された状態で管体に「5」の数字を刻記した電気雷管五本が発見されたことは前記のとおりであり、検察官は刑事公判において証第一〇号雷管が右現場遺留品として発見押収された雷管であると主張して提出したことは当事者の弁論の全趣旨からも明らかである。

(二) 甲第一四一号証(訴外山本祐徳の鑑定人尋問調書)、同第一四二号証(同訴外人の鑑定書)、同第一三一号証、第三一一号証、第三五六号証(いずれも訴外大友薫の証言)、同第一九五号証(同訴外人の証調)、第三四六号証(同訴外人の鑑定書)を綜合すると

1、証第一〇号の一ないし四の管体の上部欠損は自然の腐蝕によるものではなく、鋭い刃物で人為的に管口より約六ないし七ミリメートルの個所で内部に装填されているゴムチボの上端部分で切断されたものであること、

2、証第一〇号と同種の電気雷管(通常、六号電気雷管と呼ばれている)をダイナマイト中に装填したまま放置するときは日時の経過とともに雷管管体に緑青を生じ次第に腐蝕するが、

イ 証第一〇号雷管の錆の程度では新白梅ダイナマイト中に挿入されていた時間は約二四時間であること、

ロ 新白梅ダイナマイト中に約一週間挿入されていた場合は雷管の管口部の硫黄を挿入した部分の腐蝕がはなはだしく、腐蝕した管体がようやく付着している状態でその約三分の一程度の管体は離脱して硫黄が露出し、その露出した硫黄はわずかの外力でも崩れそうな状態になること、

の各事実を認めることができる。

(三) 右事実からは証第一〇号雷管は現場遺留品として発見押収されたものではないとの疑いが強い。

もつともこの点につき遺留品として発見された八月四日(甲第四〇九号証の司法警察員作成の実況見分調書によれば押収は同日の午後四時半から六時半までの間になされている)の約二四時間前に何者かが証第一〇号雷管をダイナマイトに挿入して発見現場に置放し、捜査官が右日時にこれを押収したと考える余地もないではない。(第二審刑事判決も右のような可能性を示唆するもののようである。)しかし、もしそうだとすると雷管のみならず、これと同時に発見押収されたその余の多くの証拠物も、すべて本件鉄道爆破事件と関係がないということにならざるをえないが、右証拠物の中には、本件との関連性を強く推認させるもの(たとえば、緑色被覆電線、ボール紙箱)が含まれているのであるから、右のような想定は、やはり不合理であるというのほかない。

四、腐蝕雷管(以下これを旧雷管ともいう)の存在

(一) 証第一三号証、第三五六号証(いずれも訴外大友薫の証言)、第一九五号証(同訴外人の証調)、第三四六号証(同訴外人の鑑定)によれば、第一審第三六回刑事公判(昭和三〇年二月八日)および昭和三一年五月一六日公判準備期日当時、証第一〇号の四雷管に結びつけてあつた二組の導線(脚線)のうち、一組についてその先端に光つたハンダが附着しておりこれは雷管の管口より管体内に挿入される脚線がその硫黄部分、ゴムチボ部分(以上両者の長さが1.25センチメートル)を通り、更にその先の火薬部分に至るその最先端に取付けてある白金をハンダづけする一部であること、そしてこの様な状態に脚線があることは脚線を途中で切断することなく雷管より抜取つた時にのみ可能であること、然るに証第一〇号一ないし四の脚線のとれた雷管にはいずれも管体の切断面であるゴムチボの部分に、それより先の脚線部分が同様に切断されて管体内に残存していることを認めることができる。

そうすると、右証第一〇号の四雷管に結びつけてある脚線のうち一組は証第一〇号の一ないし四のいずれの雷管の脚線でもないものであり、このことからも証第一〇号雷管以外に何らかの雷管が存在した可能性が推測される。

(二)1 甲第四一一号証(火薬類保管証)C項には「電気雷管五本、雷管頭部に横に5の数字を刻んだ雷管である。腐蝕して管と脚線が離れているものもある」との記載があること、

2、甲第五七五号証、第五七六号証(いずれも火工品保管証)には「品名電気雷管五本脚線付、腐蝕度甚だしく使用不可能のもの」なる記載があること、

3甲第四一五号証(鉄道爆破関係爆薬処理状況現場写真記録)第三葉には腐蝕していると見られる雷管四ないし五本が写されていること、

(三)1 甲第一七六号証、第二七〇号証、第二九四号証(いずれも訴外藤田良美の証言)、同第一七八号証(同訴外人の証調)による司法警察員訴外藤田良美は遺留品の発見された同二七年八月四日遺留品中の雷管に数字記載が見つかつたことからその識別のために雷管を挿入したままの遺留品ダイナマイト一本をもつて同日夜司法警察員訴外中田正、司法巡査工藤春三、同大久保寛二郎とともにキャリャーと呼ばれる自動車で訴外油谷鉱業所に赴いたところが途中の道路でキャリャーの振動が激しく雷管を挿入したままでダイナマイトを保持することは危険だと考え、訴外藤田はダイナマイトから雷管を抜こうとした、そして抜くために脚線を引張つたところ脚線が取付けの部分からスポツと抜け(切れたのではない)雷管の管体はダイナマイト中に残つてしまい指先でこれをつまみ出した、かように取出された管体は頭部の金属部分が少し欠け、欠けた跡はギザギザになつていた、管体は光つてはいなかつたが、欠け落ちた部分には緑青がふいていた、欠け落ちた部分には黒くなつたゴムのようなものが詰まつていた、と述べていること、

2、甲第一七三号証、第二九九号証(いずれも被告田畠義盛の証言)によると司法警察員被告田畠義盛は同二七年一一月頃芦別町警察署で訴外打田巡査が誰かがダイナマイトから雷管を抜いた時脚線が切れて雷管が抜けなかつた、その時雷管の頭の部分が脚線について抜けて来て管体は壊れた、管体の残りはダイナマイト中に残つた、それでダイナマイトを割いて管体を取出した、残つた部分は錆びて緑青が相当ふいていた、とれた頭の部分には金属の部分もいつしよにとれたのを見たこと、そしてその時相当腐つているという感じを持つた、と述べていること、

3、甲第一二一号証(訴外柴田政美の証言)によると訴外油谷鉱業所の火薬取扱係をしていた訴外柴田政美は同二七年九月二五日頃迄右係で勤めていたが、右係に在職中警察官から束になつた雷管五本とバラになつた雷管三〜四本を見せられた、五本の雷管は真新らしいもので、三〜四本の雷管は緑青がふいていた、束のものもバラのものも全部「5」という数字が入つていた、種類は同じものであつた、バラの雷管は脚線の長いものも短いものも取れているものもあつた、バラのうち一本の雷管は腐蝕のため硫黄の部分がとれて短くなつていた、全部現場に遺留されていたものだと説明された、警察から示されたものは相当腐蝕したものだつた、縁青は手で抜いても取れない位になつているものだつた、雷管の頭部は腐蝕のため取れたものと思う、警察で示された雷管は当時から相当腐蝕していて今示されたもの(証第一〇号の一ないし五雷管)以上に腐蝕していた、当時示された新らしい雷管は今示されたもの程古くないと思う、当時バラの雷管は五〜六本あつたように思う、頭のとれていたものは大半だつたように思うと述べていること、

の各事実を認定することができる。

(四) 以上の各事実は証第一〇号の一ないし五の雷管とは明らかに異つた、相当期間ダイナマイトに挿入されていたため腐蝕した旧雷管の存在を認めさせるに足りるものである。

しかも右のような旧雷管の存在は後述の訴外斉藤満由による雷管保管の事実にも符合する。

五、訴外斉藤満由による雷管保管

(一)(1) 芦別市警察署鑑識係司法巡査訴外打田清は訴外北日本興業株式会社火薬取扱主任訴外斉藤満田に現場遺留品であるダイナマイトを保管させその際同訴外斉藤につぎのような書面を作成させたこと、

イ 昭和二八年一月八日付作成の「火薬保管書」には同日遺留品と称するダイナマイト二一本及び電気雷管五本を訴外芦原捜査課長の依頼により訴外斉藤がこれを保管した趣旨の、及びこの雷管については「雷管の頭部に横に5の数字を刻んだ雷管である」と記載されていること、

ロ 同年七月四日付作成の「保管爆薬の消却状況について」と題する書面は前記遺留品と称するダイナマイト二一本を右同日午前中に消却した趣旨のものであるが、その消却状況について「新白梅爆薬中電気雷管付五本はこれを素手にて薬包紙を取去り、内部より電気雷管五本を抜き取り」ダイナマイトを消却し、「電気雷管(脚線付)五本は・・・・埋没せず」と記載されていること、

ハ 同年七月三日付作成の「火工品保管証」には電気雷管五本を芦別市警察署長の依頼により訴外斉藤が保管している趣旨の記載があること、

(2) 前記訴外打田清作成の同年七月四日付「火薬処理現場立会について」と題する書面には右(1)、ロ、の書面に対応し、ダイナマイト消却前電気雷管五本を取去つたと記載してあること、

(3) しかし刑事公判において検察官は電気雷管五本を訴外斉藤満由に保管依頼した事実は一度もなく、又ダイナマイト消却の際電気雷管を抜取つた事実もないと主張したこと、

の各事実は当事者間に争いがない。

(二)1 訴外斉藤満由の供述

(1) 甲第六二号証、第一〇四号証、第二四三号証(訴外斉藤満由の証言)、同第六四号(同訴外人の証調)及び本件口頭弁論期日における同訴外人の尋問結果を綜合すると訴外斉藤満由の述べるところは

訴外北日本興業株式会社芦別鉱業所に勤務していた訴外斉藤満由は昭和二八年四月頃芦別市警察署の司法巡査訴外打田清からダイナマイト及び雷管の保管を依頼され、右同署でダイナマイト及び多数の雷管を受取つた。その際に甲第四一一号証の「火薬類保管証」に押印して提出した。同保管証C項にある雷管五本は腐蝕して原型をとどめないボロボロのもので数字は見えなかつた。(もつともこの雷管を同年七月頃のダイナマイトの消却の際に預つた旨の供述もある)右預つたダイナマイト、雷管は右訴外会社火薬庫に保管していたが、同年七月頃ダイナマイトの融解が著るしく進み自然発火の危険があつたので訴外斉藤は七月三日芦別市警察署にダイナマイトの消却処分方の申請をし、その許可をえて翌七月四日附近の山中でダイナマイトを消却した。右申請の際甲第四一二号証「保管爆薬類消却申請について」と題する書面を芦別市警察署に提出し、又消却後甲第四一三号証「保管爆薬の消却状況について」と題する報告書を提出した。右消却には訴外打田巡査が立会い甲第四一五号証「鉄道爆破関係爆薬処理状況現場写真記録」に貼付されている写真を写した。預つた雷管五本は消却せずその後火薬庫の入口の寒暖計の釘に掛けておいた。この雷管は同二九年二月頃まであつたがその後紛失した。なお同二八年七月のダイナマイト消却の頃甲第五七五号証、第五七六号証の「火工品保管証」を提出した。

というのにある。

(2) 訴外斉藤の供述は些細な点では若干の喰違いは見られるものの大筋は右に記述した限度では一貫しており、次に記述する訴外打田清の供述と対比してもみても右訴外斉藤の供述が前来記述の旧雷管の存在にも合致し充分措信しうる。結局同二八年四月頃か或は七月頃かは明らかでないが訴外打田清から預つた現場遺留品の腐蝕雷管五本は同二九年二月頃訴外斉藤の許で紛失し滅失したものと認めることができる。

2、訴外打田清の供述

(1) 甲第六五号証、第六六号証(訴外打田清の証調)、同第一〇三号証、第二三七号証、第二四〇号証、第二九一号証(同訴外人の証言)、乙第五二号証(同訴外人の訴外金子検調)を綜合すると訴外打田清の述べるところは

芦別市警察署鑑識係司法巡査訴外打田清は同二八年一月、上司である捜査課長警部訴外芦原吉徳に云われて訴外打田が右警察署内で保管していた芦別事件の遺留品であるダイナマイトや雷管を訴外北日本興業株式会社の火薬庫に保管を依頼することにし、その頃あらかじめ前記甲第四一一号証「火薬類保管証」を作成しておいた。右訴外会社の火薬取扱係の訴外斉藤は同年四月頃芦別市警察署にダイナマイト等を取りに来たが、その際訴外芦原から雷管は捜査に必要だから渡さないように云われていたので渡さずダイナマイトだけを渡した。その時先に作成しておいた保管証をそのまま流用し、訴外斉藤に押印してもらつた。同年七月頃訴外斉藤からダイナマイトが危険な状態なので消却したいという話があり、同月四日訴外斉藤が消却するのに立会い、甲第四一四号証「爆薬処理現場立会について」と題する報告書及び同第四一五号証「鉄道爆破関係爆薬処理状況現場写真記録」なるものを作成した。後者の写真にある雷管を装填したダイナマイトは訴外斉藤から借用した別のダイナマイト及び雷管でその装填状況を明らかにするために作つた。右ダイナマイト消却処分の際雷管は消却せず又この時訴外斉藤に雷管を依頼したこともない。甲第五七五号証、第五七六号証の「火工品保管証」は右ダイナマイト消却処分の際雷管も消却したものではないかと思われるので念のため作つた。

というにある。

(2) 右訴外打田の供述は次のような疑問があり措信しえない。即ち、甲第四一一号証「火薬類保管証にはそのC項に電気雷管五本を訴外斉藤に預けた旨の記載があり、よしんば訴外打田清が述べるように右書面の作成された同二八年一月八日から現実にダイナマイトを引渡した同年四月迄の間に雷管の取扱いについて当初の予定に変更が生じかつまた右のように既に作成されていた書面をそのまま流用したにしても日時の訂正や保管物内容の記載削除などの労力を要するものではなく、さらに現場遺留品の雷管は正に前記した発破器とともに本件芦別事件の中心的支柱をなしていた重要な証拠物であり、しかも特にそれが捜査官の手許から離れて他の民間人の所管に帰するようになる以上、捜査官としては特にその後の捜査の進展、裁判の進行いかんによつては再び証拠物として用いなければならない必要性が充分予見されるところでもあるから、必要以上に細心の注意と慎重さをもつて保管の引渡をするのは自然の態度であつて、右のような訴外打田のとつたとする措置は単なる軽率さや過誤と見ることはできない。又甲第五七五号証、第五七六号証の「火工品保管証」の作成経過にしても雷管が埋没されなかつたことは同訴外人の作成した前掲甲第四一四号証、第四一五号証の報告書や訴外斉藤が作成した前掲同第四一三号証の報告書にも明記してあるところであり、しかも右「火工品保管証」の文言は埋没しなかつたという趣旨ではなく訴外斉藤が保管したという趣旨であることが明らかである。訴外打田の右供述はとうていそのまま信用することはできない。

六、その他の証人、参考人の雷管についての供述

甲第二九八号証(訴外高松一美の証言)、同第六一号証、第五九〇号証(訴外芦原吉徳の証調)、同第二七一号証、第三五一号証(同訴外人の証言)、同第一二五号証(被告好田政一の証言)、同第二九九号証(被告田畠義盛の証言)によれば、当時時芦別事件の捜査に従事していた司法警察員訴外高松一美、同芦原吉徳、同被告田畠義盛、検察官被告好田政一はいずれも遺留品の発見された直後に見た雷管には、或は緑青、腐蝕などなく新らしい雷管と同様ピカピカ光つていた、或はうすく赤黒くなつているだけだつたなどといずれも腐蝕の存在を否定する旨の供述をなしているが、これらはいずれも前記した訴外大友薫の鑑定と符合せず、措信するには至らない。

七、警察署、検察庁における雷管の保管と対照用雷管

(一)1 遺留品たる雷管五本が昭和二七年八月四日発見され、以後芦別市警察署において司法警察員訴外芦原吉徳、司法巡査訴外打田清の責任で保管されていたことは前記のとおりであり又右八月四日の夜司法警察員訴外藤田良美外三名の警察官がうち一本を持つて訴外油谷鉱業所へ識別のため赴いたことも又前記のとおりである。

2、甲第二九八号証(訴外高松一美の証言)、同第二三七号証、第二四〇号証、第二九一号証(いずれも訴外打田清の証言)、同第六五号証(同訴外人の証調)、同第一七八号証)訴外藤田良美の証調)、同第一二五号証(被告好田政一の証言)同第一七二号証(訴外中田正の証言)、同第一一八号証(訴外国久松太郎の証言)、同第二五号証(同訴外人の証調)、同第一二〇号証(訴外高橋為男の証言)、同第二三号証(同訴外人の証調)、乙第七一号証(同訴外人の被告好田検調)同第七二号証(同訴外人の被告金田検調)、同第二〇五号証(同訴外人の司調)、甲第一二一号証(訴外柴田政美の証言)、乙第六一号証(同訴外人の被告好田検調)、同第二七二号証(同訴外人の司調)、甲第三三七号証(訴外西浦正博の証言)を綜合すると、

芦別市警察署では司法巡査訴外打田は雷管五本を封筒の中に入れて保管していた、(この点につき雷管がいつダイナマイトから抜出されたかは必ずしも一致していない。右甲第二四〇号証、第二九一号証によれば訴外打田は遺留品が発見された日か又その数日を出ずしてダイナマイト、雷管を保管し、その際別々に保管した旨述べているが、甲第一二五号証、第一七二号証、第一七三号証、第一七五号証、第一七八号証、第二九九号証、第三〇五号証によれば当時司法警察員又は検察官として捜査に従事した訴外中田正、同藤田良美、被告田畠義盛、同好田政一はいずれも雷管は即刻抜かれることなく遅くとも同二七年暮頃までに逐次ダイナマイトから抜かれた旨述べている。しかし前記甲第三四六号証の訴外大友薫の鑑定書にもあるように雷管はダイナマイトの中では極めて速やかに腐蝕することからは右のように長期間一部をダイナマイトに挿入したまま放置していたとは考えられず、又一部の雷管管体に数字が見られたとなればすべての雷管を抜き出して確認することも捜査上の当然の措置と見うるところであり―もし雷管の数字にばらつきがあれば捜査の方法は当然変りうるであろう―又雷管装填のダイナマイトの原状を保存する必要があつたにしても写真等を併用すれば充分その目的を達しうるところである。従つて右訴外中田正らの順次摘出したとする供述は措信しえない)、そして、適宜捜査に際し、関係人に呈示する必要のある時に捜査官が持出していた、

との各事実を認めることができる。

(二) 甲第五九二号証(訴外高橋為男作成の任意提出書)、同第二九八号証(訴外高松一美の証言)、同第二八四号証、第二八七号証、第三五一号証(いずれも訴外芦原吉徳の証言)、同第二九四号証(訴外藤田良美の証言)、同第一一八号証、第一八八号証、第三〇一号証(いずれも訴外国久松太郎の証言)、同第二五号証(同訴外人の証調)、同第三〇四号証(訴外高橋為男の証言)、同第二〇八号証(同訴外人の証調)、乙第二〇六号証(同訴外人の司調)、甲第三〇二号証(訴外柴田政美の証言)のほか検甲第六号の対照用雷管を綜合すると、

芦別市警察署では雷管に刻記されている数字「5」の筆蹟対照にするために訴外油谷鉱業所二・三坑坑務所で電気雷管に係員の持番号を入れていた訴外高橋為男、同柴田政美、同磯部一郎に各自五本宛自筆で同じ数字「5」を刻記して同二八年一〇月二日右訴外高橋を通して任意提出させたこと、右対照用雷管の受入手続は訴外打田清がなしたこと、

の各事実を認めうる。

2、しかしながら他方甲第二九八号証(訴外高松一美の証言)、同第二八四号証、第二八七号証、第三五一号証(いずれも訴外芦原吉徳の証言)、同第二七〇号証(訴外藤田良美の証言)、同第一七八号証(同訴外人の証調)、同第一二〇号証(訴外高橋為男の証言)、同第一二一号証、第三〇二号証(いずれも訴外柴田政美の証言)、同第三〇一号証(訴外国久松太郎の証言)を綜合すると、

芦別市警察署司法警察員訴外高松一美は遺留品の雷管が発見されて間もない同二七年八月頃右雷管に刻記された数字の対照用のため訴外油谷鉱業所二・三坑坑務所火薬取扱係員訴外国久松太郎から同坑務所係員三〜四人の刻記した同じ数字のある雷管一〇本ないし一五本を提出させたこと、右対照用雷管は正規の任意提出、領置の手続をとることなくなされたこと

の各事実を認めることができる。

3、しかして右掲各甲号証中訴外高松、同芦原、同藤田、同国久の各供述は、その後この対照用雷管の数字の筆蹟は右対照用雷管の筆蹟の一人のものと素人目で見ても一致することがわかつたのでその日か、その次の日位に訴外油谷鉱業所に返却した、となつている。しかし右返還した旨の供述部分はにわかに措信しえない。すなわち、遺留品雷管と筆蹟を同じくする雷管の出現は単にその後の捜査の進展のみならず、事件が裁判に進んだ場合には極めて重要な証拠の一つをなすものであり、従つてその確保は捜査の段階では欠くことのできない当然の措置といわなければならず、未だ専門家などによる筆跡合致の確定がなされる以前に安易に返還されることは常識上からも首肯されず、(実際にも後記のように昭和二七年中に遺留品の雷管の鑑定が行なわれたと認めうる)かつ又甲第一一八号証、第一二〇号証からはその後捜査の過程では訴外国久松太郎、同高橋為男らには新しい雷管と思われるものが示されて取調べがなされている状況も伺われる。

そうすると遺留品発見直後借り出された対照用雷管一〇本ないし一五本は何らかの形で捜査官の手許に留められたものとの疑いも否定し去ることはできない。

(三)1 甲第三五一号証(訴外芦原吉徳の証言)、同第五九〇号証(同訴外人の証調)、同第二九一号証(訴外打田清の証言)同第六五号証(同訴外人の証調)、乙第五二号証(同訴外人の検調)、甲第二九九号証(被告田畠義盛の証言)、同第一七九号証(訴外久保由雄の証調)、同第四二二号(訴外金丸吉雄の鑑定書)によると、昭和二八年一〇月四日芦別市警察署からの依頼により北海道警察本部鑑識課では現場遺留品の雷管として証第一〇号雷管五本の及び対照用雷管として検甲第六号(証第八二号ないし第八四号)雷管一五本の各写真撮影が行なわれ、更に同月二六日付で鑑定人金丸吉雄によつて証第一〇号雷管の筆跡鑑定が行なわれたことを認めることができる。なおこの際既に証第一〇号雷管中その一ないし四の頭部が欠損し短くなつていることも認められる。

2、ところが甲第二七一号証、第二八四号証、第三五一号証(いずれも訴外芦原吉徳の証言)、同第六一号証、第五九〇号証(いずれも同訴外人の証調)によると司法警察員訴外芦原吉徳は刑事公判で遺留品が発見された後間もなく他の証拠品を鑑定に出した時雷管についてもいつしよに鑑定に出したが鑑定出来ないということで(甲第二八四号証)又は結論がでないまま(同第三五一号証)返還されたと述べている。

右供述は措信しうる。なぜならば前掲各証拠からは雷管とともに発見された現場遺留品のほとんどは発見後程なく同二七年八月から一〇月にかけて国家地方警察札幌方面本部へ鑑定ないし鑑識に出されていることが認められるのにもかかわらず雷管については証第一〇号雷管の鑑定は前記のとおり同二八年一〇月にやつと筆跡鑑定に出されたとするとその間一年以上の空白があつて不自然であり、かつ遺留品の雷管の数字が本件芦別事件の捜査の進展を油谷炭鉱に結びつけた最有力な証拠であり、捜査官がその鑑定による確定を慢然と放置するとは考えられないからである。

八、以上の各事実を綜合すると現場遺留品として発見された雷管はそれがダイナマイト中に挿入されていたことにより速やかに腐蝕が進行し、遅くとも同二九年二月までに訴外斉藤満田の許において朽廃し、その残滓も又紛失して滅失したこと、そして捜査官は比較的早期に(甲第一一八号証によれば訴外国久は事件後間もなく捜査官から新しい雷管と思われるものを示されている)同種同型の六号電気雷管を複製して所持していたが、遅くとも同二八年一〇月に証第一〇号雷管の鑑定が終る頃までに旧雷管に似せて腐蝕の状況に可及的に符合さすべく、うち一ないし四の管体頭部約六ミリメートルを切断したものと認めざるをえない。

第三参考人の取調べ及び供述について

一総説

一およそいかなる刑事事件においても、それが捜査裁判のいかなる段階にあるとを問わず事件関係人(被告人、被疑者、証人、参考人など)の述べることが真実と認むべきか否かを決定するには何よりも先づその供述が任意になされたものでなければならず、然る後、その任意になされた供述が他の客観的な状況に合致するか否かによつて決せられなければならないことは云うまでもないことである。そして又およそ事件関係者らを含め人間の認識供述、即ち知覚、記憶、そしてそれにもとづく表現が一般に非常に不安定なものであり、又人により様々なものであるから、なおさらそれが自然な形、即ち任意な記憶喚起にもとづいて表現され、その上で他の状況証拠や科学知識、論理則、経験則によつて評価しその供述者が何を知覚したかを決定しなければならないことは必須不可避の条件といわなければならない。そしてこのことは単に自明の理であるのみならず、特に基本的人権の尊重をあくまで第一義とする現行憲法各条にもその表現を見ているところである。

二、なる程かように任意になされた人の供述であつても時にはその個人の欲望、目的、意図、利害の存在によつて或はその人の無意識のうちに或は故意に歪められ、虚偽の要素が混入することも又我々の日頃数多く体験するところではあろう。しかしそれはかような不純の要素の混入を可能ならしめる状況の存在することを指摘することによつてその供述の計画に際し特に留意しより一層綿密に他の状況、証拠資料等と比較検討を重ねつつその誤謬を排除して行きそして真実を見出すべく志向するより方法がない。これは確かに労多き仕事であり、そして時には必らずしも十全の成果が常には確保されえない労苦でさえあろう。

だがもし万一かような虚偽の要素の混入を恐れ、その供述者をしてあらかじめ何らかの方法で供述を不任意ならしめるならば、そこには必らず取調者の意図、目的、そしてその欲するところの要素がより強く混在し、一体その供述者自身かかつて過去において何を知覚し、何を記憶し、そして何を物語ろうとしているのかは全く不明な結果に陥り、例えいかにそれが物語として一貫しているものであつてもその証拠価値を失わしめる結果になることは当然であろう。かような不任意の供述はたまたま客観的状況に符合するところがあつたにしても、それは偶然の一致に過ぎず供述自体の価値が増すものではない。ましてやそれによつて奪われる供述者自身の、そして更に第三者もの基本的人権の災害や測り知れないものと云わなければならない。

我が国の刑事訴訟法が任意性を欠く供述及び供述調書を強く証拠能力を欠くものとして証拠から排除しているのも又これに由来するものであることは云うまでもない。(同法第三一九条以下)「百人の罪人を逃がすといえども一人の無辜を罰するなかれ」の法理はいまなお生き続けているのである。

三、右のような法意にもとづく刑事訴訟法は供述を獲得するための事件関係人の身柄の拘束を全く認めていない。特に事件について第三者的立場から幾多の貴重な証拠資料を提供する証人、参考人を、それが事件にとつていかに重要なものであれ逮捕、勾留することを許されない。又被疑者、被告人にしてもその逮捕、勾留は彼らが逃亡するとか又証拠隠滅をなすおそれがある場合にこれを防止する限度としてのみ許容され(同法第六〇条、第一九九条、第二〇七条参照)それを越えて被疑者、被告人から例えば自白を取得する目的をもつて身柄を拘束することは違法であることは勿論である。なる程、既に逮捕、勾留された者が何らかの他の事件について重要な供述をなすこともあり、又被疑者、被告人が逮捕勾留後自己の事件について悔悟、反省して自供をなすこともあろう。かかる場合にはその供述を一定の限度で証拠とすることは許されている。しかしこのことは右法意を破るものでないことは勿論である。しかもかかる場合身柄を拘束された者の供述が任意になされたものか否かについては特に慎重な検討が必要とされるであろう。(同法第三一九条以下参照)未だ逮捕、勾留の経験のない一般市民にとつては逮捕という事実のみでも容易に強い恐怖と心理的抑圧を与えるであろうし、ましてや長期の勾留となれば一日も早く釈放され、自由な身になりたいという強い人間的衝動は供述者をしてきわめて容易に捜査官への迎合的傾斜を生み出し、例え取調官が個々の取調べにおいて何ら強制手段を用いなかつたとしても又、利益誘導をなさなかつたとしても、供述者は自ら進んで取調官の意図するところを探り、その者をして喜ばしめる供述へと陥込んで行く虞のあることは稀ではないといわなければならない。そしてこのことは単にその者に対する逮捕、勾留が適法になされた場合においてもその捜査行為を実質的に違法ならしめるに至ることのあることは云うまでもない。

四甲第二八四号証(訴外芦原吉徳の証言)によれば司法警察員訴外芦原吉徳は刑事公判において本件芦別事件の捜査において約五〜六〇名もの者が逮捕されたと証言しているところであり、又特に刑事公判において検察官が同事件の帰趨を握る重要な証人として維持し、又その数多くの供述録取調書を提出した訴外中村誠、同石塚守男、同藤谷一久その他はいずれも後記するように比較的軽微な事実で逮捕勾留され、しかも中には数回にわたつて再逮捕、勾留が繰り返えされ、その長期の身柄拘禁の中で取調べが続けられ、その供述にもとづいて捜査が展開されて行つた。

二 訴外中村誠の取調べ及び供述

一訴外中村誠の逮捕、勾留及び取調べ

(一)  訴外中村誠が芦別事件に関して四回逮捕されたことは当事者間に争いがないが、さらに詳細には

1、乙第四〇六号証の一、二によれば訴外中村は、訴外藤谷一久外二名と共謀して昭和二七年六月二八日訴外大興商事の火薬保管箱よりダイナマイト三本及び電気雷管二本を窃取した旨の被疑事実により同二八年三月一九日滝川地区警察署に逮捕され、同年三月二〇日から同年四月八日迄勾留されたこと、

2、乙第四〇七号証の一、二によれば訴外中村は、訴外石塚守男外二名と共謀して法定の除外事由がないのに同二七年六月二九日上芦別野花南発電所貯水池においてダイナマイト二本、電気雷管二個を爆発させた旨の被疑事実により、火薬類取締法違反で同二八年四月八日滝川区検察庁に逮捕され同年四月一〇日から同月二九日迄勾留されたこと、

3、乙第四〇八号証の一、二によれば訴外中村は、同二六年二月中頃訴外池永ツナ外四一名の無尽掛金一二、三〇〇円を預り保管中横須賀市及びその附近でほしまいまに費消して横領したとの旨の被疑事実により同二八年七月二八日赤平町警察署で逮捕され、同年七月三〇日から勾留され、

4、乙第四〇八号証の四、第四〇九号証によれば訴外中村は、法定の除外事由がないのに同二七年七月中旬頃訴外大興商事井尻飯場より三菱上芦別駅まで火薬新白梅三函、雷管一〇本位を運搬したとの被疑事実により火薬類取締法違反で同二八年九月七日芦別市警察署に逮捕され、同年九月九日から勾留されたこと、

5、なおこのほか甲第一三号証(訴外中村の証言)によれば訴外中村は同二七年八月二八日にも傷害事件で逮捕され、発破器のことで調べられたこと、

6、甲第四五九号証の一、五からは訴外中村は前記2の事実により火薬類取締法違反罪で起訴されたこと、又乙第四〇七号証の三、第四〇八号証の三、五(いずれ訴外中村の移監通知書)、甲第一三号証、第一五七号証(同訴外人の証言)及び本件口頭弁論期日における訴外中村の尋問結果によれば同訴外人は同年三月に逮捕されて以来同年一〇月五日に釈放される迄引続き合計二〇一日間勾留されたこと、

の各事実を認めることができる。

(二)  甲第四八四号証ないし同第四九二号証、乙第八号証、第一六七号証ないし第一八一号証によれば訴外中村については同二七年九月九日付の司法警察員調書があり、又同訴外人が逮捕された同二八年三月一九日から同年五月八日迄は取調調書はなく(同訴外人の甲第四八六号証検調には第一回供述調書となつており又乙第一六八号証司調は第二回供述調書になつている)、そして同年五月九日から同年一〇月三日迄の間に司法警察員調書一三通、検察官調書八通、裁判官の証人尋問調書二通が作成されていることを認めえ、又甲第一三号証、第一五七号証(同訴外人の証言)及び同訴外人の本件口頭弁論期日における尋問結果からは訴外中村はそのほとんどを鉄道爆破事件について取調べられたことも認めうる。

二、訴外中村誠の供述につき当事者間に争いのない事実

訴外中村誠の同二八年五月二五日付(検察官訴外金子誠二)供述調書において発破器について「下げ皮の止め金が外側に向いた鈎型のもので」「一週間ばかり前中村部長や中田部長から麻紐のついたメッキのはげた真鋳色の角型の発破器を見せられましたが、あの位の大きさのものでありました。あの発破器はずい分古いように思われましたが全般の感じはあのようなものでした」と述べていること、右の特徴は現場遺留品の発破器とは明らかに異ること、右遺留品の発破器は下げ皮の止め金がボタン式であつたこと、訴外中村の同二八年九月一〇日付(検察官訴外金子)供述調書では同訴外人は「私共が三坑、六坑現場で使つていたのは鳥居式発破器で私の記憶ではジュラルミンの古ぼけたようなもので特徴としてナンバープレートが剥離していた。私が井尻に母親といつしよに捲座前で渡した発破器はこのプレートのついていないものであつた。(この時押収にかかる提革のあるジュラルミンの発破器一台を示した)お示しの発破器のナンバープレートの剥離している点とジュラルミンの古ぼけた色合と大きさ等から私が井尻に捲座前で昨年六月中過ぎ頃渡したものに間違いないと思われる」旨供述していることの各事実は当事者間に争いがない。

三1、訴外中村誠の捜査段階での供述は甲第四八八号証、第四八九号証、第四九一号証、(いずれも検察官訴外金子誠二に対する供述調書)及び同第四九二号証(検察官被告金田に対する供述調書)に要約されうる。今右各供述調書により訴外中村の供述の要旨を見るに

(1) 訴外大興商事の三坑と六坑現場では発破母線をお互いに共同使用していたが不便なので私は係員訴外福士佐栄太郎に請求して同二七年六月二〇日過ぎ新しい緑色被覆電線二五メートルのもの一本を貰い三坑同堀の自分の現場で発破母線として使つていた。訴外井尻が三坑堅入現場で働らくようになつた同年七月三、四日頃私に新らしい母線を堅入現場の方に廻してくれないかといつたので訴外井尻にこの母線をやり自分は同訴外人から古い母線を貰つて使つた。訴外井尻は同年七月二〇日過ぎ頃まで新しい母線を使つていたが私が三坑堅入に行つて見た時同訴外人は古い母線を使つていた。同訴外人にやつた母線を私は三回程しか使わなかつた。私は母線の継目を平行に捻じること、母線の芯を手斧でたたいてから引つぱつてゴムの裂目から出すこと、又新しい母線には引張つた時笠木で傷がついていることが特徴だ。(遺留品である緑色被覆電線を見て)これらの特徴があるので私が訴外井尻にやつた母線という感じだ。

(2) 同二七年六月一六、七日頃、私は六坑捲揚機室前で訴外井尻に発破器を渡した。訴外岩城定男が盲腸になつた六月二〇日の直前であつた。渡した日の朝訴外井尻は私が発破器を使つたらすぐ廻してくれといつた。午前一一時過訴外井尻に発破器を渡した。その時私が「平岸の仕事はどうした」と聞いたら同訴外人は「まだはつきり決らないが決つたらこれが要る」といつて発破器を指した。私は同訴外人が平岸の解体作業に持つて行つて使うものと思つていた。この日は同訴外人といつしよに帰らなかつた。その後間もなく訴外岩城定男や訴外井尻は発破器を知らないかといつて来た。私は知らないと答えた。発破器はこの頃から見当らなくなつた。私は内心訴外井尻が持つて行つたと思つている。同訴外人が鉄道爆破事件に関係しているらしく思われることなどからだ。この発破器は鳥居式ジュラルミンの古ぼけた様なものでナンバープレートが剥離していたいた。ナンバープレートのないことは私が使つていた道具のナンバープレートを控えている時発破器のナンバーも控えようと思つて見た時なかつたので覚えている。又底部の真中に窪みがある。又五月頃訴外梅里某がこの発破器を分解した時中を見たらコイルが黒光りしていた。(証第二一号発破器を示す)私が使つていて訴外井尻に渡したものに間違いない。ただ発破小線は巻いてなかつた。

(3) 同二七年七月七日頃訴外井尻らといつしよに帰る途中同訴外人から「サンプルとして大須田さんのところへ持つて行つてくれないか」と言われた。井尻飯場で同訴外人は私のリュックに三分の一程沈粉のような石炭を入れた。飯場を出る時訴外井尻は私に「うるさいから黙つていれよ。サンプル以外のものも入れたから黙つていれよ」と注意した。リュックに石炭の外火薬が入つていたのかも知れない。私は上芦別で訴外大須田にサンプルを渡し、翌日リュックを返して貰した。

(4) 私が同二七年七月三〇日頃朝一番列車で油谷に上るため六時二〇分頃訴外岩城方へ行つたら訴外井尻がいた。そして訴外井尻、同岩城兄弟、同藤谷一久、同米森順治らといつしよに汽車に乗つた。訴外井尻は紺色の縦稿ダブルの上衣に黒いような平ズボン、靴は茶か黒ズックだつたように思う。私は訴外井尻が腰を下ろすのにスッコを貸した。途中汽車がトンネルを通る時車中に煙が入り、自分はタオルで口を塞いだが訴外井尻はハンカチで口を塞いだように思う。油谷で降り訴外井尻は飯場の方へ行き、そして私達がまだ事務所にいる間にやつてきた。

というにある。

2、甲第四八四号証、第四八五号証(いずれも訴外中村の証調)によれば訴外中村は同二八年九月一日、同月一四日行なわれた裁判官の証人尋問に際しても右(1)(2)と同趣旨の供述をなし、又同第一〇号証、第一三号証(いずれも訴外中村の証言)によれば第一審第二回、第三回の刑事公判での検察官の主尋問において若干その表現があいまいになつている所もあるがほぼ同趣旨のことを述べていることが認められる。

四1、しかしながら右甲第一三号証によれば第一審第三回刑事公判では弁護人の反対尋問に対し、訴外中村誠は、

私は三月一九日から一〇月五日迄警察に勾留され、その間すべての嫌疑をかけて調べられた。取調べでは訴外井尻がお前に火薬を頼んだといつているのにお前はそれを知らぬわけはない。訴外井尻が自白しているのにお前も自白しろといつて調べられた。自白を強いられたので事実に反したことを警察で供述したこともある。勾留中しばしばそのような取調べを受けた。大勢の人から調べられたが記憶しているのは訴外藤田部長、同中田部長、同中村部長、同金子検事だ。訴外金子検事は発破器について「福田米吉が中村誠が発破器をかつぱらつたといつているから発破器をかつぱらつたのはお前だ」といつて私を責めた。しかし最後になつて同検事はこの点を撤回するといつた。取調べは手を出さなかつたが語調は相当鋭いものであつた。訴外金子検事からは何回も取調べを受けた。取調べは朝呼ばれて晩まで調べられたこともあるし、食事の時間も調べられた。このため私は盗みもしない発破器を盗んで雑品屋に売却したと述べた。事実がはつきりしなければいつまでも勾留されるから、当時勾留されて肉体的にも精神的にも相当苦痛を感じていたので言えば早く出して貰えると思い苦しまぎれにそのように述べた。三月一九日食後訴外中田、同中村両部長に強硬に追及された事があるが、その時真剣になつて叩いた訳ではないと思うが白状せよといわれて膝をぽんと叩かれた。裁判官に対しても警察や検察庁におけると同じ様に嘘のことを述べた。前言をひるがえすと早く出られないと思つて警察、検事に述べたのと同様に述べた。裁判官は大体検察官調書を見ながら取調べていたようだ。

と述べている。

2、そして甲第一五七号証、第二一四号証(いずれも訴外中村の証言)及び本件口頭弁論期日における訴外中村誠の尋問結果によれば同訴外人は第一審第四九回(30.7.29)、第二審第三回(33.2.22)の各刑事公判及び本件口頭弁論においても同様の取調べ状況を述べ、かつ

(1) 発破母線の点については訴外福士佐栄太郎から新しい母線を貰つたことはあるが、当時各現場では持廻りしていたので何回か訴外井尻と受渡しをしたことはある。又結線の仕方も芯の出し方も私自身特別な仕方はしていなかつた。

(2) 発破器も一台を各現場で交互に使つていた。プレートはついていなかつたようにも思うし、ついていたようにも思う。発破器の内部は覚えていない。

(3) 訴外井尻といつしよに油谷に上がつたことがあるがいつかわからない。七月三〇日いつしよに上がつたという記憶はない。訴外井尻がスッコを敷いて腰を下ろしトンネルを通る時ハンカチで口を覆つたことはあつたがこれは縞のダブルの背広を着ていたので賃金交渉の時だと思う。と述べるに至つている。

五1、なる程訴外中村誠に対する捜査段階における取調調書中比較的早期の段階とみられる甲第四八七号証(28.5.25付訴外金子検調)では発破器の形態は「鈎型、メッキのはげた真鋳色」といつた前述の六坑、三坑で使用されていた証第一二九号発破器の特徴に符合する供述がなされていた。ところが、乙第一六八号証ないし第一七〇号証(28.5.29ないし6.10付被告中村、訴外中田司調)では訴外中村は発破器を盗んだことはない旨の供述をくり返しているが乙第一七一号証、第一七二号証(28.6.10及び6.11付いずれも訴外中田司調)によると訴外中村は知らないと答えているにもかかわらず延々と発破器、発破母線について問答が続けられていることが認められる。このような右各調書の記載から見ても訴外中村に対し、その記憶喚起の限度をはるかに越えた自供要求の取調べが行なわれたのではないかとの疑いを生ずる。そして又その後の乙第一七四号証、第一七五号証(いずれも28.7.10付訴外藤田司調)において訴外中村が前記三1記述のように発破母線、発破器を訴外井尻に渡したと自供するに至つたという経緯を認めることができる。

2、就中検察官が刑事公判で維持しようとした前記三1の訴外中村の供述については次の点でその真実性に疑いを生ずる。

(1) 発破母線の結線に仮に訴外中村が述べたような特徴があつたにしても、同訴外人の供述によつても同訴外人が訴外井尻に手交した後訴外井尻が使用していることになる筈であり、更に検察官が主張するように右母線が鉄道爆破に使用されたというのであれば、訴外中村の言う結線の特徴は既に残らなくなる筈であり、そうすれば訴外中村がその特徴をあげて現場遺留品たる緑色被覆電線(検甲第三号、刑事公判では証第一六号)を識別したことにしかるべき疑いをもつべきであつたと思われる。

(2) 発破器については前記第二、〔一〕で記述したように証第二一号発破器が訴外大興商事に存在した可能性は否定されざるをえない。

(3) 火薬運搬の点については後記〔三〕〔五〕で記述するように訴外石塚守男、同徳田敏明の火薬の搬出がいずれも否定されるので訴外中村が運搬することもありえない。

以上のとおり検察官が刑事公判において維持しようとした訴外中村の捜査段階における供述は、重要な点において多くの不合理を包含し、とうてい措信するに足りない。

なお七月三〇日の朝列車で訴外井尻と同席したとの点については後記第四〔一〕六訴外井尻正夫のアリバイについての項参照

六、そうすれば訴外中村は何が故にかような事実に反するような供述をしたかを考えるならば結局前記四で記述したような長期の勾留の苦痛と不安と、それに加えて取調べに当つた警察官、検察官の誘導的、強要的取調べに迎合したとの訴外中村自身の供述を除外しては他にその原因を求めることはできないといわなければならない。

三 訴外石塚守男の取調べ及び供述

一訴外石塚守男の逮捕、勾留及び取調べ

(一)  訴外石塚守男が芦別事件につき三回逮捕されたことは当事者間に争いがないが、更に詳細には、

1、乙第四〇三号証の一、二によれば訴外石塚は、訴外中村誠外二名と共謀して昭和二七年六月二八日訴外大興商事の火薬保管箱よりダイナマイト三本及び電気雷管二本を窃取した旨の被疑事実により、同二八年三月九日芦別警察署に逮捕され、同年三月一一日から三月三〇日迄勾留されたこと、

2、乙第四〇四号証の一、二によれば訴外石塚は、訴外中村誠外二名と共謀して法定の除外事由がないのに同二七年六月二九日上芦別野花南発電所貯水池においてダイナマイト二本、電気雷管を爆発させた旨の被疑事実により、火薬類取締法違反で同二八年三月三〇日滝川区検察庁に逮捕され、同年四月一日から同月二〇日まで勾留されたこと、

3、乙第四〇五号証の一、二によれば訴外石塚は、(イ)法定の除外事由がないのに同二七年七月初旬頃、訴外大興商事第三坑より井尻飯場までの間ダイナマイト一二本入三箱位などを所持し、(ロ)同月中旬頃訴外井尻正夫らが人の身体、財産を害せんとする目的をもつて前記爆発物であるダイナマイト等を所持している事を知りながら直ちにこれを警察官に告知しなかつたとの各被疑事実により火薬類取締法違反および爆発物取締罰則違反で同二八年七月一九日札幌地方検察庁岩見沢支部に逮捕され、同年七月二〇日から同年八月八日迄勾留されたこと、    4、甲第三八号証、第四〇号証(訴外石塚の証言)によれば訴外石塚は右2の事実につき同二八年四月二〇日起訴されてそのまま被告人勾留が続けられ、3の逮捕、勾留を経た後同事実についても起訴され最終前には同年八月二六日に釈放されるまで計一六九日間勾留されたこと。

の各事実を認めることができる。

(二)  甲第四三九号証ないし第四五四号証、第四五七号証、第四五八号証、第五六〇号証、第五六四号証、乙第三九二号証ないし第四〇一号証によれば訴外石塚について前項の期間内に司法警察員調書一〇通、検察官調書一六通、裁判官の証人尋問調書四通が作成されていること、しかし同二八年六月一日より同年七月二〇日迄の間には同訴外人につき作成された調書がないこと、が認められ、かつ右各調書によれば捜査官はほとんど大部分芦別事件について同訴外人を取調べていることが認められる。

二、訴外石塚守男の供述につき当事者間に争いのない事実

1、井尻飯場において原告地主が訴外井尻に対し火薬入手の依頼をしたとの点について

イ 訴外石塚の同二八年三月三一日付、同年五月二日付、同月一六日付(いずれも検察官金田泉)各供述調書には一応刑事公判での検察官の右の点についての主張に沿うような供述、そしてその日は訴外岩城定男が腹痛を起した同二七年六月二〇日頃であつたと供述されていること、そして更に同年五月一日付(検察官被告金田)及び同年七月二一日付(検察官被告三沢三次郎)各供述調書には訴外石塚は同二七年六月一七、八日頃それまで間借りして居住していた訴外竹田源次郎方を出て井尻飯場の訴外井尻の部屋の隣の六畳間に移つたこと、その部屋はもと一二畳の部屋であつたが訴外大興商事従業員訴外米森順治が六畳二室に仕切り、その後訴外石塚が移転したという経過が記載されていること。

ロ 捜査官が訴外竹田源次郎から押収した同訴外人の手帳には同二七年七月一〇日の欄に「石塚七月一〇日出ル」という記載があること。

ハ 検察官被告三沢三次郎は同二八年七月一六日訴外米森順治を取調べていること、同訴外人はその際仕切の時期について「六月下旬のことで七月に入つていなかつたように記憶しています。……その仕事に二日掛つたと思います」と述べていること。

2、訴外井尻が訴外石塚、同藤谷一久に火薬類の入手を依頼したとの点について

イ この点について訴外石塚を主に取調べたのは検察官被告金田泉、同高木一であること。

ロ 訴外石塚の同二八年三月三一日付(検察官被告金田)供述調書では同訴外人は「同二七年六月二五、六日頃井尻飯場で井尻光子から焚付用にしたいので火薬を少し持つて来てくれと頼まれたが、その時前に地主が井尻に火薬が欲しいといつていたので地主に頼まれた火薬かなと薄々感じた」との旨述べていること。

ハ ところが訴外石塚の同二八年五月四日付(検察官被告金田)供述調書によると「私達が魚取りをしたその翌日一番方として第六坑吊下ろし現場に働らいたのでありますが、その日昼休み頃であつたと思います、第六坑のズリ捨場で私と藤谷さんと井尻さんが一緒におり……その時井尻さんは石さんに頼みたいことがある、火薬を都合して俺ん所へ持つて来てくれないか、といいました。それで私はただうんと返事をしたのであります。井尻さんは私と藤谷の二人に言つたわけでなく、たしかに私に言つたように覚えております」と、そして更に「当時井尻正夫さんから度々口止めされていたので井尻光子の名を出し井尻さんの名を出さなかつたのであります」と述べていること、しかし先の調書では訴外石塚は既に訴外井尻は鉄道爆破の犯人である旨供述していること。

ニ 訴外石塚は同二八年七月二一日付(検察官被告三沢)供述調書では従来の供述に加えて「休み時間が終りそうになつて仕事をするために立上つた時井尻君が私に『六坑と三坑と切換えになるときに持つて来てくれないかな』といいました。」と述べていること。

3 原告地主が七月中旬頃井尻飯場で訴外井尻から火薬を受取つたとの点について

イ 訴外石塚の同二八年三月三一日付(検察官被告金田)供述調書では先づこの点は「その後七月の七日頃で私が一番方の仕事を終えて飯場に帰つて来た時であつたと思いますが、井尻の所へ地主が子供を連れて来ておりました。そうして午後七時頃であつたと思いますが、私は……表口の方から表に出たところ、それより先に井尻と地主とその子供の三人が裏口から表に出ており……その時地主は丁度重箱の様な格好の四角い風呂敷包みを右側の手に提げておりました。その風呂敷は赤地で白い字で寿と書いたものであつたようでした……」となつていること。

ロ 訴外石塚の同年五月六日付(検察官被告金田)供述調書には「後でよく考えてみますと七月七日ではなく、七月一九日頃で先程申し上げた時は只公休日の次の日であつたように記憶していましたので七月六日の次の日であろうと思つて七月七日と申し上げたのであります」となつている。前記同二八年三月三一日付検察官に対する供述調書では訴外石塚は七月上旬の行動について詳細に順を追つて述べていること。

4、訴外井尻が訴外石塚に対し鉄道爆破の仲間入りを勧誘したとの点について

イ 訴外石塚の同二八年五月六日付(検察官被告金田)供述調書では「その日は公休日のことですから確かに七月一二日頃であつたと思います。……そしてその朝食後の午前一〇時頃であつたと思います。私が井尻正夫さんの部屋に行きましたところ、……井尻さんは一人で酒を飲んで少し酔つておりました。……すると井尻さんは急に『君に相談があるんだが』といい出し、私が『相談とは何んの事だ』ときいたら、井尻さんは『石さんが持つてきた火薬は地主にやるんだ。あの火薬は鉄道爆破に使うのだが、石さんも火薬を用意したんだし、どうせ判つたら共犯だと見られる。だから仲間に入らないか』といつたので、私は自分は頼まれて持つて来たことだし親父にもおこられると思つて『自分は頼まれたから持つて来たんだがそんなことをすれば親父におこられるし判つたら一生キズ者になるからいやだ』と断つたところ、井尻は『そうか』といつておりました。なおその時井尻は私に鉄道爆破は平岸と茂尻との間で地主、大須田、地主といつしよに来た男、明鉱で俺と一緒にレッドパージになつた斎藤という奴、三菱でレッドパージになり大興で少し働いた男、山内らであるというような事もいつてました。……その翌日公休日であつたと思いますが、やはり午前一〇時頃私が井尻の部屋に行きました。……井尻さんはやはり酒を飲んでいたようでありました。そして私に『昨日の話だが火薬は石さんに用意してもらつたし、母線は誠に一回ではなく二、三回にして持つて来て貰つたんだが、発破器だけがないんだが、発破器は誠がかつぱらつたと皆言つてる。あいつは手癖が悪いし売つてしまうと悪いから』といつておりました。私は更に『行く人は誰だ』と聞いたところ井尻は『昨日喋つたメンバーだ』といつておりました」とあること、訴外石塚は同二八年五月三〇日付及び同月三一日付(いずれも検察官被告高木)各供述調書でも同趣旨のことを確認していること。

ロ 訴外石塚は同二八年三月三一日付、同年四月二日付(いずれも検察官被告金田)供述調書においては事件全体についてその日時を追つて詳細に陳述しているのにこの勧誘の話を述べていないこと。

ハ 他方訴外井尻は同二八年六月四日付検察官訴外小関に対する供述調書、同年九月一〇日付裁判官の証人尋問調書で同訴外人は同二七年七月一一日から一三日まで賃金交渉のため他の数名の者と一緒に代表として札幌に出向いていたと述べていること。

5、七夕の晩の話について

右の点についての訴外石塚の供述によれば、鉄道爆破の犯人は訴外井尻、原告地主のほかに訴外山内繁雄、同大須田卓爾、同斎藤正、その他も入つていることになつていること。捜査官は右訴外山内、同大須田、同斎藤の三名を逮捕したこと。しかし同訴外人ら三名を取調べた後釈放し全く起訴しなかつたこと。

6 訴外石塚は第二審第六回刑事公判で「それは全部中村部長、中田部長、藤田部長、弘中警部補に言わされたのです。……井尻から火薬を頼まれなかつたかと聞かれたので、頼まれなかつたと答えました。すると藤谷や中村はお前が火薬をリュックに入れて持つて行つたことを知つているといわれました。それで私は藤谷、中村の二人がそういつているのであれば仕方がないのでそのように供述したのです。……藤谷が魚とりの翌日昼すぎ井尻から私が頼まれていたといつているといわれたので私もそのように述べたのです。……中村部長から写真を見せられこの人見たことないかと聞かれ、見たことないと答えたところ、藤谷が見たといつているから一緒に働らいていて、お前が見ないはずがないと何度も言われました。あまりしつこく言われたので実際に会つたことはないのですがそのように言つたのです。……中村部長がその人達の名前を全部手帳に書いておりました。そして六月二〇日に飯場にいたんだが見たことがないかと聞きました。私は飯場には現場から帰つて一回行つたが見たことがないと言いました。中村部長は藤谷が見ている、嘘を言つても駄目だ、本当のことを言えといつたので私は藤谷がそう言つているなら間違いないと思い、そのように述べたのです。中村部長は手帳を見て名前を読んだのでわかりました」と述べていること。

以上の各事実は当事者間に争いがない。

三訴外石塚守男の供述について

(一)  訴外石塚守男の供述の主要な骨子は、

(1) 昭和二七年六月二〇日頃午後井尻飯場において原告地主は訴外井尻に対して火薬の入手方を依頼したこと。

(2) 同年七月四日二番方の帰り訴外石塚は三坑からダイナマイトの使い残り及び雷管を井尻飯場に持帰つたこと。

(3) 同年七月一二日、一三日頃の両日にわたり訴外井尻は訴外石塚に鉄道爆破の計画を打ち明け、かつ訴外石塚にもその仲間入りを勧め又計画参加者の名を告げたこと。

(4) 同年七月一九日頃原告地主が重箱のような風呂敷を持つて井尻飯場から出て行つたこと。

(5) 同年八月七日七夕の夕方井尻飯場で訴外井尻、同石塚、同藤谷が焼酎を飲んだ際、訴外井尻が鉄道爆破の事実及びこれに関与した者の氏名を告げ、かつ口止めしたこと。

に帰せられる。

(二)  同二七年六月二〇日頃原告地主の訴外井尻に対する火薬入手依頼の点は、

甲第四三九号証、第四四三号証(いずれも訴外石塚の被告金田検調)、乙第三九四号証(同訴外人の被告中村司調)によれば訴外石塚の供述の要旨は「六月二〇日頃岩城定男が腹痛を起した。午後二時頃原田鐘悦が井尻正夫に用事のある人が来ているからすぐ帰れと現場に呼びに来て井尻は先に帰つた。私は午後三時頃飯場へ帰つた。いつも開いている井尻の部屋の戸が閉つていた。窓から中を見ると井尻、その妻井尻光子、地主、大須田、名前のわからない男がいた。自分の部屋に上かり風呂へ行く仕度をしていると地主の声で『井尻君火薬がいるんだ。何とか都合できないだろうか』という話がして、井尻は『俺は火薬を扱つているんだから自分から持つて来るわけには行かないから』と返事していた。私はそれだけ聞いてすぐ風呂に行つた。約二〇分して風呂から帰つて来た時にはその人達はいなかつた」というにある。

2、同年七月四日訴外石塚が三坑からダイナマイト及び雷管を井尻飯場に持帰つたとの点は

(1) その前提となる訴外井尻が訴外石塚に火薬を依頼したとの点は前記二、2の当事者間に争のない事実のとおりであり、

(2) 甲第四三九号証、第四四四号証(いずれも訴外石塚の被告金田検調)によると、その要旨は「能谷組に六坑現場が移つた後七月四日頃三坑現場で二番方として働らいた。発破を掛けるのに藤谷と井尻昇がダイナマイトを取りに行き井尻昇がリュックにダイナマイトや雷管を入れて持つて来た。それからダイナマイト三二〜三本、雷管一二〜三本を取出して使つたように思う。残りは又リュックの中に入れておいた。午後一〇時頃仕事を終えて帰る時残つたダイナマイトと雷管の入つたリュックを坑口で塊炭三個位をその上に入れてそのまま飯場に持帰つた。雷管を入れた箱一箱二〇本位とダイナマイト三箱位あつたという。飯場で釜戸の前に置いて井尻に『火薬を持つて来たよ』といつたら井尻は『すまないな』といつた。そして風呂へ行つた。翌朝見たら炊事場のところにはリュックはなかつた」というにある。

3、同年七月一二日、一三日頃の両日訴外井尻から鉄道爆破計画を打明けられ、仲間入りを勧誘されたとの点は、前記二、4の当事者間に争のない事実のとおりであるが、さらに甲第四四五号証(訴外石塚の被告金田検調)によれば、訴外井尻は「七月二九日鉄道爆破に行くんだ」と言つたことになつている。

4、同年七月一九日原告地主が井尻飯場から重箱のようなものを持去つたとの点については前記二、3の当事者間に争いのない事実のとおりである。

5、同年八月七日七夕の夕方の話の点は

甲第四四〇号証、第四四八号証(いずれも訴外石塚の被告金田検調)によればその要旨は「八月七日一番方から帰り風呂に行き藤谷といつしよに私の部屋にいると井尻が焼酎五合程と肴を皿に入れて部屋に来て三人で飲んだ。飲み終つて井尻は『お前の持つて来たダイナマイトも雷管も全部地主にやつて鉄道爆破に使つた。これは絶体に誰にも言わんでくれ』といつた。又『鉄道爆破に行つたんだ。行つたメンバーは前に言つたメンバーで段取りしたのは皆んなでしたんだが、かけたのは俺と地主の二人で、かける前に線路の方から人が歩いて来たので土手の小高いところへ皆んなで隠れた。そしてすぐかけたのだが、レールは壊れなかつた。かけ終つてから国道の方から人が来る気配がしたので慌てて俺と地主と大須田と三人で麦畑の方へ逃げそのまま三人で芦別の方へ逃げて帰つて来た。あとの連中はどつちへ逃げたかわからない。母線や発破器やハンドルは慌ててそのまま傍の方へ投げて来た』といつた。又発破器をかける時外の連中は道路の方にいたというようなことも言つていた。井尻は又線路から離れた土手のかげでかけたというようなことも言つていた。六時半頃私、藤谷、井尻夫婦その子供二人で街へ七夕を見に出かけた。油谷の街のマーケットに行き小間物屋で藤谷が子供に花火を買つてやつた。その後店の前で藤谷が私に『井尻のいつたとおり絶対に云わないでくれ』と云つた。」というにある。

(三)  訴外石塚は甲第四五七号証、第四五八号証、第五六〇号証、第五六四号証(いずれも証調)において同二八年八月三日から同月一四日迄の間四回にわたり裁判官の証人尋問の際にも右と同趣旨の供述をなしている。

(四)  ところが甲第三六号証、第三八号証、第四〇号証、第一五九号証、第二一六号証、第二一八号証、第二二一号証、第二二九号証、第三三九号証(いずれも訴外石塚の証言)によれば訴外石塚は同二八年一二月五日第一審第七回刑事公判に証人として法廷に立つて以来一貫して右各供述事実をいずれも全面的に否定し続けていることが認められる。その否定する根拠のうち、第二審第六回刑事公判で述べているところは前記二、6の当事者間に争がない事実のとおりであるが、右各証拠就中甲第四〇号証を中心としてその述べるところを見るに

(1) 「取調べの時間は朝一〇時頃から夜一一時か一二時迄も調べられ、そのために精神的にも相当参つた。私は兵隊の時弾で頭をやられたため神経系統がおかしくなつている。現在でも長時間にわたつて調べられると頭がおかしくなる。火薬を運んだことについて取調官から『お前がいくら知らんといつても藤谷はお前が持つて来たといつているのだ。二人も三人もいるのにお前一人が強情をはつても駄目だ』と二日も三日もしつこく責られ、遂に火薬を運んだと嘘を述べた。私は知らないことは知らないといつたが、前に云つたような調子で責られ数々の嘘を去つてしまつた。警察官は怒つてみたり、おだててみたり時には中村部長は私の膝を叩いたりという全く非紳士的取調べ方をした。又中村部長、弘中警部補から『お前がいわなくても他の者が知つているんだ。あれも知つているだろう、これも知つているだろう。一つでも早く云えば一日でも早く出してやる』と云われた。それで私は虚偽の供述をした。三人も四人もの検事に囲まれてしつこく責られるのが一番辛かつた。これは三沢、金田、金子、佐藤の四人の検事だ。岩見沢の検察庁で高木検事から二日続けて一一時、一二時迄調べられた時も相当辛い思いをした。そこで検察庁でも警察と同じ嘘を述べた。三沢検事から『石塚、お前嘘をいつても駄目だ。はつきり云え』と鋭い目で見つめられながらいわれた時、本当の事を云つても駄目だ、警察で述べたとおり嘘を云わなければならないと思つた。警察官から『一旦お前が云つたからには嘘だとは云わせない。そんなことを云うと偽証罪になるぞ』と云われ、又『今まで通り云わないと偽証罪で三ケ月以上一〇年以下の懲役になるぞ』といわれた。弘中警部補に家内に連絡をとつてくれるように頼んだ時『お前の家内は悪い事をしたお前に愛想をつかして別の男と一緒になつている。あきらめろ』と云われた。又警察官から『こつちは全部知つているんだ。お前白状しなければ白状させてやる、覚悟しろ』とか『お前は親を捨てているからやる気になれば七年や八年刑務所にぶち込む権利があるんだ』と云つて六法全書を見せて脅かされた」と述べ、

(2) 又訴外石塚が自らも別件で起訴された前記一、(一)2の事実(同二七年六月二九日野花南発電所貯水池でダイナマイトを爆発させて魚とりをした事実)及び同一、(一)3の事実(同年七月初旬三坑から井尻飯場までダイナマイト、雷管を運んだ事実)について札幌地方裁判所岩見沢支部刑事公判でその事実をいずれも認め同二八年九月一二日有罪、懲役四月(未決勾留四月通算)罰金四、〇〇〇円の判決の言渡しを受け控訴もしないまま確定した点について訴外石塚は「(魚とりの事は争はないが)火薬運搬の事実は嘘であるが法廷で本当のことを云つたり又控訴したりすると勾留が長くなつたり又偽証罪で起訴され、かえつて罪が重くなると考えた」と述べており、

(3) 又「私が勾留されている間(同二八年)三月に母親が死亡し、四月に父親が死亡した。接見禁止になつていて外部との連絡はなく五月二〇日にやつとわかつた。勾留中両親のことが気になつて滝川地区警察署の警察官に聞いたら『両親は元気だから安心せよ』といつたが当時既に母親が死亡していた。警察官や検察官は両親が死亡したことを知つていながら敢てかくしていた。」と、

「嘘を述べるようになつてからは中村部長に風呂帰りに食堂で酒を飲ませてもらい又藤田部長から現金二〇〇円もらい、又毎日のように親子丼、天丼、そばを食べさせてもらつた。又検察官も『食べたいものは食べさせてやるから云え』といつた」と、

「(釈放された後の)同二八年一〇月二七日層雲峡で検察官に調べられた時事務官から示された書類は手にとつて見たわけではないが逮捕状でないかと思つた」と、

いずれも当時の取調状況を述べている。

四、前記三、(一)(二)で記述した検察官が刑事公判で維持しようとした訴外石塚守男の供述は以下検討するように結局その内容は事実に反するものといわなければならない。

1、同二七年六月二〇日頃原告地主が訴外井尻に火薬の入手を依頼したとの点は

(1) 前記訴外石塚守男の各供述からは同訴外人が右入手依頼の話を聞いた時には井尻飯場の一二畳の間は既に訴外米森順治が仕切りをして六畳二間にし、その後へ訴外石塚がそれまで間借りしていた訴外竹田源次郎方から移転しその後で起きた事柄ということになる。そこで訴外米森が右間仕切りをした時期及び訴外石塚が井尻飯場に移住した時期が訴外石塚の供述の評価に重要な関係を持つことになる。なお右依頼の日が六月二〇日であることは前記したとおり訴外岩城定男が腹痛(盲腸炎)を起した日とあるので動かない。

(2) 甲第四七号証、第一六一号証、第三二四号証(いずれも訴外米森順治の証言)、同第四三六号証(同訴外人の被告三沢検調)、本件口頭弁論期日における証人米森順治の尋問結果からは訴外米森順治は「同二七年四月二八日から盲腸炎で仕事を休み入院手術をした後更に同年六月末頃まで休んで同月末頃か七月に入つて再び訴外大興商事で働らくようになつたが当初はまだ坑内作業は無理であつたので坑外作業ことに大工仕事などをしていたが、その間に井尻飯場の間仕切りをした」旨述べている。この事実は甲第五七二号証(三坑七月分操業日報)、同第五七三号証(坑外操業日報)の各記載にも符合する。従つて訴外米森の右間仕切り作業の時期は早くて同二七年六月下旬遅くて同年七月に入つてからということになる。

しかるに検察官被告金田の作成した前掲各供述調書では訴外石塚は同二七年六月一七、八日頃井尻飯場に移つた旨の供述記載がなされていることは前記二、1の当事者間に争のない事実のとおりである。

(3) 甲第四〇四号証(訴外竹田源次郎の証言)、同第四〇五号証、第四〇六号証(同訴外人の査調)、乙第一四号証、第一五号証(同訴外人の被告三沢検調)のほか本件口頭弁論期日における証人竹田源次郎の尋問結果によれば訴外竹田源次郎は「訴外石塚がそれまで間借りしていた訴外竹田源次郎方を出て井尻飯場に移住したのは同二七年七月一〇日頃である」と述べている。この事実は前記二1の当事者間に争いのない事実の個所で記述したように同訴外竹田所有の手帳(甲第五六八号証)に「石塚七月一〇日出ル」と記載されていることにも符合する。

(4) 以上の事実から訴外石塚が井尻飯場に住むようになつたのは同二七年七月一〇日以降であると認定し得、従つて訴外石塚が六月二〇日に原告地主が訴外井尻に火薬の入手方を依頼しているのを聞いたとの点は右の客観的事実に反し真実を述べたものとは思われない。

(5) なお右(1)の事実の認定に関係する甲第五七二号証(三坑七月分操業日報)、同第五七三号証(坑外操業日報)は甲第三七〇号証、第三七一号証、第三七三号証によれば同二八年五月二日訴外大興商事総務主任酒井武から任意提出され捜査官が領置していたが、同三八年五月九日第二審第四二回刑事公判において検察官ははじめて法廷に提出したこと、又右(2)の事実認定に関係する甲第五六八号証(訴外竹田源次郎所有の手帳)は甲第三九三号証、第三九九号証によれば同二八年六月三〇日検察官被告三沢が訴外竹田から領置したが同三八年六月一七日第二審第四五回刑事公判において検察官がはじめて法廷に提出したこことの各事実も併せ認定することができる。

2、同二七年七月四日三坑から訴外石塚がダイナマイト、雷管を井尻飯場に持帰つたとの点は

(1) この点に関して甲第二一六号証(訴外石塚の証言)では訴外石塚は訴外竹田源次郎方から井尻飯場へ移つたのは同二七年七月半ばであると述べているが、その他の甲第三八号証、第一五九号証、第二二一号証、第二二九号証(いずれも同訴外人の証言)では訴外石塚はいずれも同年七月四日頃右飯場に移つたと述べている。しかしこの後の方の供述はいずれも前記した訴外竹田所有の手帳(甲第五六八号証)が刑事公判に提出される以前の証言であつて、前記1(4)で記述したように訴外石塚が七月一〇日以降井尻飯場に移住したとの認定を覆えすに至らない。

(2) そうすると右七月四日には訴外石塚は未だ井尻飯場に移住しておらず従つて同訴外人が同日夜三坑現場から井尻飯場に帰つたという点は事実に即しないものであり、ひいては同訴外人が同日ダイナマイト及び雷管を運搬したとする事実も亦否定されざるをえない。

もつとも甲第二一六号証(訴外石塚の証言)によれば訴外石塚は井尻飯場に移住する前にも月に一〜二度同飯場に泊つたことがある旨述べているけれども、前掲捜査段階での訴外石塚の供述はこの一〜二度泊つた時の場合として井尻飯場に行つたと認めうべき情況を述べているわけではないので、この一事によつて前記認定は左右されない。

(3) なお右訴外石塚が持帰つたという事実の前提となる訴外藤谷、同井尻昇が六坑捲場機室から三坑現場にダイナマイト、雷管を運んだとの事実は後記(訴外藤谷一久の取調べ及び供述について)四、2で記述するようにその可能性は否定しえないが、訴外藤谷らは大量の残火薬が生ずる程余分に火薬を運んだと迄は認めえないのでこの点からも訴外石塚の火薬運搬の事実は否定されざるをえない。

(4) なお捜査段階での訴外石塚の供述調書中乙第三九三号証(同訴外人の被告中村司調)、甲第四三九号証(同訴外人の被告金田検調)に見られる右火薬を原告井尻光子に頼まれた旨の供述、甲第四四四号証(同訴外人の被告金田検調)(甲第四五七号証、第五六〇号証の裁判官の証調も同様)に見られる訴外井尻正夫から火薬の運搬を頼まれたとの供述も、その入手ないし運搬を依頼される火薬の数量が全く供述されておらず(例えそれが六月一〇日の原告地主の依頼にもとづくものとしても同様)かような依頼の仕方それ自体が不自然であつてこの点だけからもその真実性に疑問を持たざるをえず、そしてなによりも第二審刑事判決(甲第五六六号証)が指摘するように訴外井尻が自ら火薬類をひそかに入手しようとすればあえて訴外石塚らに依頼しなくても自ら容易に入手しうる環境にあつたにもかかわらず何が故にわざわざ訴外石塚をして入手せしめなければならなかつたのかも全く不明であつて経験則上も首肯しえないものといわなければならない。

3、同二七年七月一二日、一三日頃の両日訴外井尻から鉄道爆破計画を打明られその仲間入りを勧められたとの点について

(1) 甲第三九六号証(訴外酒井武の証言)、同第四〇三号証(訴外高橋金夫の証言)、同第五三二号証(訴外井尻正夫の訴外小関検調)、第五〇二号証(同訴外人の証調)から訴外井尻正夫が同二七年六月下旬訴外大興商事の賃金紛争に際しその交渉代表団の一員に選ばれたことを認めえ、又甲第四〇三号証(訴外高橋金夫の証言)、同第五三二号証(訴外井尻の被供)、乙第九一号証(訴外田中武雄の訴外志村検調)によれば右代表団が七月一日に続き第二回目に賃金交渉のため訴外大興商事の札幌本社に赴いたのは同二七年七月一一日から一三日迄であつたことが認められこの事実は甲第五六九号証(訴外高橋金夫所有の手帳)の記載にも符合する。

従つて訴外石塚のこの点の供述も又事実に反することになる。

なお右甲第五六九号証訴外高橋金夫所有の手帳は甲第三九三号証、第四〇〇〇号証によれば同二八年九月二八日右訴外高橋から芦別警察署に任意提出されて領置されていたが同三八年六月一七日第二審第四五回刑事公判において検察官がはじめて法廷に提出したことも併せ認めうる。

(2) 又この点についての前記したような訴外井尻の告白の内容を述べる訴外石塚の供述はそれ自体第二審刑事判決(甲第五六六号証)も指摘するようにおよそ鉄道爆破を企てた者が事前に第三者に対しその日時場所を予告しかつその参加メンバー迄も明らかにするとは例え訴外井尻が飲酒していた上での話としても全く経験則上も首肯しうるものではなく、更に後記5(八月七日の七夕の夕方の話について)で記述するようにその中に出て来る訴外山内、同大須田らが訴外井尻、原告地主と全く同一の立場におかれているのに本件芦別事件に関しては全く不問に付せられていることとも相俟つてとても措信しうるものではない。

4、同二七年七月一九日頃の午後七時頃原告地主が重箱のようなものを風呂敷に包んで持去つたとの点は

(1) この点についての訴外石塚の供述は同二八年三月三一日付(検察官被告金田)供述調書では右事実は七月七日頃となつており、そして同二八年五月六日付(検察官被告金田)供述調書では七月一九日頃となつていることは前記三、2の当事者間の争いのない事実のとおりであるが、乙第三九四号証(28.3.13付被告中村司調)でも訴外石塚は右の事実を七月七日と述べている。

この点につき甲第五三三号証(28.4.6付)、乙第一六三号証(28.4.29付)(いずれも原告地主の訴外佐藤司調)によれば原告地主は捜査官に対し同二七年七月上旬には油谷に行つたことはなく同月七日から雄武の方に行き同月一五日芦別に帰つた旨供述している。原告地主の右同二八年四月六日付の供述のあと裏付捜査をして作成されたとみられる乙第三四三号証(28.4.10付訴外佐藤キウの司調)、同第三四四号証(28.4.12付訴外島尻善次郎の司調)、同第三四五号証(28.4.12付訴外豊島忠治の司調)はいずれも原告地主の右供述に合致した。その後訴外石塚は前記のように五月六日付の供述で七月七日を同月一九日に変更している。特に前記甲第四三九号証(検察官被告金田)の供述調書では訴外石塚は六月半頃から七月末日迄の出来事を順次日付を日付を追つて述べているところから見ても右日時の変更は単に記憶違いとも思われない。

(2) 特に原告地主の重箱様の風呂敷包の話は訴外石塚においても直接訴外井尻が原告地主に火薬等を手交するのを見たという供述ではないけれども、前記3の訴外井尻の爆破計画の打明けの話、及び後記5の七夕の話とともに訴外井尻が原告地主に火薬を手交したのではないかと推測しうる情況であれば、何よりも前記2で記述したように訴外石塚が七月四日井尻飯場に火薬を搬入した事実が否定され、かつ後記で記述するように訴外徳田敏明と同井尻が同年七月初旬頃二・三坑務所からダイナマイトなどを窃取したとの事実も否定される以上、右訴外石塚のこの点についての供述も架空の供述といわなければならない。

5、同二七年八月七日七夕の夕方の話について

(1) 後記〔四〕の訴外藤谷一久の供述関係で掲記する同訴外人の各供述調書、及び第四、〔一〕の訴外井尻正夫の供述関係で掲記する同訴外人の各供述調書のほか右の点についての前掲訴外石塚の各供述調書によれば同二七年八月七日七夕の夕方井尻飯場の訴外石塚の部屋で訴外井尻、同石塚、同藤谷一久の三人が焼酎を飲んだ事実のあつたことは認められる。しかし問題はその際何が話題になつたかである。

(2) しかして前記した訴外石塚のこの点についての供述はそれ自体訴外井尻が一方において訴外石塚、同藤谷らに鉄道爆破事件のことを口止めしながら、他方において事件の経緯、参加メンバー等を詳細に(時には誇らしげにさえ)云い触らしていることは全く矛盾した態度であつて不自然でありとても首肯しうるものではない。

(3) しかし何よりも訴外石塚が七夕の話において爆破事件の参加者とした訴外山内繁雄、同大須田卓爾、同斎藤正夫の三名を捜査官は逮捕(甲第七五号証(訴外山内の証言)第八七号証(訴外大須田の証言)によれば訴外山内、同大須田が逮捕されたのは同二八年八月一七日、訴外斎藤正夫が逮捕された日付は明らかでないが、乙第一二九号証ないし第一三一号証(いずれも訴外斎藤の検調)によれば同年八月末か九月初頃とみられいずれも訴外井尻、原告地主らの鉄道爆破事件の起訴前である〕して取調べた後釈放し起訴しなかつたことは前記二、5の当事者間の争いのない事実のとおりであるが、右掲甲第七五号証、第八七号証、乙第一二九号証ないし第一三一号証のほかさらに乙第二四七号証ないし第二五六号証(いずれも訴外山内の司調)、同第二五七号証ないし第二五九号証、第二六一号証、第二六三号証、第二六四号証(いずれも訴外大須田の司調)、同第二一六号証ないし第二二八号証(いずれも各参考人の司調)本件口頭弁論日等における証人芦原吉徳、被告三沢三次郎、同高木一の各尋問結果からは結局訴外山内、同大須田、同斎藤の三名にはアリバイが成立し、又はそれを否定し切れないために起訴できなかつたことが認められる。

(4) そうすれば訴外石塚の供述からは本件鉄道爆破事件に関し訴外井尻、原告地主と全く同様の立場にあるとされた訴外山内、同大須田、同斎藤に右のようにアリバイが成立し、或はこれを否定し切れず結局同事件に関与したことが否定され、又そのことに大きな疑いが持たれる以上、株外井尻、原告地主の爆破実行についての訴外右塚の右供述そのものについても当然に疑問とされ、又否定されなければならないものであつたといわなければならない。

6、その他の訴外石塚の供述について

(1) 乙第三九四号証、第三九六号証、第三九九号証(いずれも訴外石塚の被告中村司調)、甲第四三九号証、第四四五号証(いずれも同訴外人の被告金田検調)によれば訴外石塚は前記八月七日の七夕の日の口止めのほか、同二七年七月二三、四日頃帰途三菱の鉄道線路の所で訴外井尻に呼び止められて事件のことについて口止めされたこと、又同年九月六日頃当麻の発電所現場からの帰途同様に訴外井尻から事件について話さないように口止めされた旨を捜査官に対して述べているが、右供述の情況自体から去つても訴外井尻が事件のことをあれこれ話した後に口止めしていることから見てもいずれも訴外井尻が本気に口止めしている情況とは考えられない(訴外井尻がかくも繰返えし口止しなければならない程信頼を欠く訴外石塚に対して何が故に又かくも繰返えして事件の話をしなければならないのか了解できないし、又後記訴外井尻の捜査段階の供述調書から見ても訴外井尻は軽率な上調子な性格とは認めえない)不合理さがあつて真実を述べたものとは思えず、

(2) 又甲第四四九号証(訴外石塚の被告金田検調)、乙第四〇一号証(同訴外人の訴外芦原司調)に見られる同二七年八月一二、三日頃訴外石塚が訴外井尻と油谷所在の聞谷商店からの帰途訴外井尻が事件現場にとうきびが沢山あつたと話したとの供述、又甲第四四九号証(訴外石塚の被告金田検調)、同第四五二号証(同訴外人の被告高木検調)、乙第四〇一号証(同訴外人の訴外芦原司調)にみられる同二七年八月末頃訴外石塚が井尻飯場で寝言をいつて訴外井尻から注意されたとの供述も前来検討して来た訴外石塚の供述からみてとても真実とは考えられない。

(3) なお訴外石塚の供述に見られる同二七年七月二九日の事件当日の訴外井尻の行動、映画を見たことについて、又原告井尻光子の言譯、翌七月三〇日訴外井尻が油谷に来たことについては後記第四、〔一〕六、株外井尻正夫のアリバイについての個所で供述する。

五、以上のとおり訴外石塚の供述はとても自らの体験にもとついて事実を述べたものとは認めえず、そして何が故にかような虚偽の供述をしたかを考えるならば結局訴外中村と同様に前記三、(四)で記述したような長期勾留の苦痛、不安と取調べに当つた警察官、検察官の強要的取調べに迎合したとの訴外石塚自身の供述を除外しては他にその原因を求めることはできないといわなければならない。そしてこのことは被告国が主張する(準備書面(六)中一、(四))ごとく訴外石塚が逮捕後数日を経ずして自供をなすに至つたとの一事によつては左右されない。

四 訴外藤谷一久の取調べ及び供述

一訴外藤谷一久の逮捕、勾留及び取調べ

(一)  訴外藤谷一久は芦別事件に関して四回逮捕されたことは当事者間に争いがないが、更に詳細には

1、乙第四一〇号証の一、二、によれば訴外藤谷は、昭和二七年七月四日六坑捲揚機室物置から新白梅ダイナマイト二〇本入一箱(時価七〇〇円相当)を窃取したとの被疑事実により同二八年二月一八日芦別町警察署に逮捕され、同年二月二〇日から同年三月一一日まで勾留された後一度釈放され、

2、乙第四一一号証の一、二によれば訴外藤谷は、株外中村誠外二名と共謀の上法定の除外事由がないのに同二七年六月二九日上芦別野花南発電所貯水池においてダイナマイト二本電気雷管二本を魚をとる目的をもつて仕掛けて爆破させもつて不正に所持使用したとの被疑事実により火薬類取締法違反で同二八年三月一九日芦別町警察署に再び逮捕され、同年三月二三日から同年四月一〇日まで勾留されたこと、

3、乙第四一二号証の一、二によれば訴外藤谷は、訴外中村誠外二名と共謀して、同二七年六月二八日訴外大興商事の火薬保管箱よりダイナマイト三本及び電気雷管二本を窃取した旨の被疑事実により、同二八年四月一〇日芦別市警察署に逮捕され、同年四月一三日より同年五月一日まで勾留されたこと、

4、乙第四一二号証の三によれば訴外藤谷は訴外中村誠外二名と共謀して法定の除外事由がないのに同二七年六月二九日頃芦別市字金剛芦別公園上流附近の空知川においてダイナマイト二本位電気雷管二本位を使用して爆破させた、との公訴事実により同二八年五月一日火薬類取締法違反として札幌地方裁判所岩見沢支部に起訴され引続き被告人として勾留されたこと、

5、乙第四一三号証の一、二によれば訴外藤谷は、同二七年一〇月上旬より同月一八日頃までの間歌志内町字仲村三興建設労務宿舎において訴外井尻正夫から布団一組を預り保管中その頃ほしいままに同町所在の質店に入質して横領したとの被疑事実により同二八年七月三一日滝川地区警察署に逮捕され、同年八月三日から同月二二日迄勾留され、結局合計一七九日身柄の拘禁を受けた事実を認めうる。

(二)  甲第四六一号証ないし第四八三号証、第五六二号証、乙第三六八号証ないし第三九一号証からは訴外藤谷について前項の期間司法警察員調書二四通、検察官調書二二通、裁判官の証人尋問調書二通が作成されていること、そして右各調書によれば捜査官はそのほとんど大部分を芦別事件について同訴外人を取調べていることも認められる。

二訴外藤谷一久の供述につき当事者間に争いのない事実

1、訴外藤谷の取調べに当つた検察官は被告金田泉、同好田政一であること。

2(1) 訴外藤谷の同二八年四月二六日付(検察官被告好田)供述調書では「私が火薬のことで井尻正夫から話を聞いたのは……昨年六月二五日頃の午前一一時半頃で……三坑坑口附近の草原で私と井尻正夫、右石塚守男の三人で食後休んでいた際、井尻が石塚に『人に火薬を頼まれている。二、三日中に必要だという訳でないが何とか都合してくれ』と頼んでおりました。それから私にも『兄も頼むぞ』と申しましたのです。……私はその時『うん』と返事をしておいた様に思います、と述べていること。

(2) 訴外藤谷の同二八年五月一八日付(検察官被告金田)供述調書では「確か昭和二七年六月末頃であつたと思います。そしてそれは私が石塚、中村、福田らとその頃野花南の発電所のダムの上流の堰堤で魚取りをした前後頃であります。……そのうち井尻正夫が石塚さんに『石さん実は人に火薬を頼まれた。何んとか都合してくれないか』というような意味の話をしたところ石塚は……兎に角それに対して承諾したような答をしておりました。……又六坑しを熊谷組に引渡して三坑に一つになつてしまうと面倒だから六坑の現場を切り換る時のごたごたを利用して都合してくれないかというような意味のこともいつていたのであります」と述べていること。

3、訴外藤谷は同二八年七月三〇日から同年八月五日までにわたる五通の検察官(いずれも被告金田)に対する供述調書において「井尻と徳田敏明が三坑坑務所からダイナマイトと雷管と母線を持出したこと、発破器のハンドル原田鐘悦が大興商事の事務室から持出したこと、そして井尻のほか大須田、山内、斎藤正夫、地主その他の共産党員が会議で相談し、鉄道爆破をしたこと」を訴外井尻から聞いたと述べていること。

4、訴外藤谷の供述によれば鉄道を爆破した犯人は訴外井尻、原告地主のほか訴外山内繁雄、同大須田卓爾、同斎藤正夫その他も入つていたことになるが捜査官は訴外山内、同大須田、同斎藤の三名を逮捕して取調べた後釈放し、全く起訴しなかつたこと。

5、訴外藤谷の同二八年五月二三日付(検察官被告金田)供述調書には

「一番最初に調べられたとき警察の人に色々と云われ、自分から自首して出た方がよいと話された。……誰々とやつたんだと聞かれたがしかし自分では川の事は前に話したので何んのことかと聞いたら、ああ俺達云わなくともお前分るだろうと云われた。それから一日か二日たつて今度はお前持つて来た残火薬を俺は石さんがスツコを背負つて来ているのを見たといつているといわれ、いろいろ後の方から聞かれたり先の方から聞かれたりしたが、俺はその火薬は本当は何拠へどう廻つているのか知らないので知らないと答えたが、石塚は藤さんだつて知らない訳はないといつていると聞かされたのですがなんぼ考えたつてはつきりした事はわからないです。すると刑事さんは急いだ事はない一月でも二月でもあくまでお前の記憶を尊重するから考えてみよと云われた。然しどうしても幾ら考えてもわからないことはわからなかつたのです」「又八月七日の七夕の日井尻飯場で飲酒した際のことにつき火薬のことで『まだ他に話していないか』と聞かれたけれど他にないと答えた。それまでに大分かかつたのです。自分がなんぼ聞いていないといつても警察の人が『そんなことはない。そこに一緒にいたんだし、石塚が聞いているのだからお前の耳に入つていない訳はない』と云われた。自分としてはなんぼ考えたつて分からないし、いくら二ケ月も三ケ月も考えていたつてわからないし、それならそんなことを云つた人を調べて貰つたらわかると思つて云つたのです」「それは警察の人に助け舟を出して貰つたからそんな風に云えたのです。そしてこうすればどうなるかという事で例えば地主が火薬を頼んだらどうなる。それを持つて行けばどうするかそれで思想関係も鉄道爆破に結びつけてしまつたのです。又石塚はこういうふうに云つているんだぞとは云われなかつたんだけれど、石塚はこう云つているんだぞと云う様なことを思わせる様な事を云われたこともあります」と述べていること。

の各事実は当事者間に争いがない。

三訴外藤谷一久の供述について

(一)  訴外藤谷の前記四十数通に及ぶ捜査段階での供述は極めて多方面にわたるものであるが、その骨子とするところは、

1 前記二、2(1)(2)の当事者間に争いのない事実で記述した同二七年六月二五日頃、三坑坑口附近の草原で訴外井尻が訴外石塚に火薬の入手を依頼したこと。

2 訴外石塚が前記三、(二)2(2)で記述したように同年七月四日三坑現場から残つたダイナマイト、雷管を井尻飯場に運搬したとの話の前提となる同日訴外藤谷らが六坑捲揚機室から三坑現場へ火薬等を運搬したとの事実、即ち甲第四六三号証、第四六四号証(いずれも株外藤谷の被告好田検調)同第四六八号証(同訴外人の被告金田検調)、乙第三六八号証(同訴外人の訴外藤田司調)、同第三六九号証(同訴外人の被告中村司調)、同第三七一号証(同訴外人の訴外芦原司調)では訴外藤谷はこの点につき要旨を次のように述べている。

「七月四日二番方で三坑堅入で掘進をした。石塚、井尻昇と組んだ。午後六時三〇分頃昇と六坑捲揚機室へ火薬をとりに行つた。昇は最初アンコを取りに行き又途中坑内機械見張所から事務所へ電話して火薬が捲揚機室に置いてあるかどうかを尋ね、あるというので取りに行つた。捲揚機室の床の保管箱の蓋をあけ、私は背負袋の口をあけ、昇がボール箱入りのダイナマイト四箱位、バラになつたもの八本、電気雷管一箱を入れ、昇が背負袋を担いで三坑に戻つた。石塚は既に掘さくを終つていたのでダイナマイトを準備し安全灯で発破をかけた。残つたダイナマイト二箱は石塚に渡したが石塚はあとどうしたかわからない。午後一〇時頃石塚らといつしよに井尻飯場に戻つた」と。

3、訴外中村誠から火薬を下げるという話を聞いたという点については甲第四七四号証(訴外藤谷の被告金田検調)、乙第三七一号証、第三七二号証(いずれも同訴外人の訴外芦原司調)によれば訴外藤谷は「同二七年七月一〇日頃井尻にいわれたので私が空車を押している際に中村に『井尻がお前に用があると云つていたぞ』と云つたら中村は『今行く』といつていた。二〜三日して一番方の仕事の帰り選炭場の所を歩いているとき中村に井尻から何を頼まれたかと聞いたら中村は『井尻に火薬を頼まれて下まで下げて来た』『地主と西芦から来た二〜三人に渡した』と云つた。この時中村は聞谷商店で買つた鯨肉を下げていた」と述べている。

4、同二七年八月七日の夕方の話は訴外藤谷の数多くの供述調書に見られるが、その代表的ものとみられる甲第四七六号証(訴外藤谷の被告金田検調)によればその点についての供述の要旨はつぎのとおりである。

「同二七年八月七日七夕の夕方井尻飯場の石塚の部屋で井尻、石塚と焼酎を飲んだ。初めは現場の話をしていたがそのうち井尻はつぎのような話をした。(イ)石塚が持つて来た火薬は地主にやつた。それは鉄道爆破に使われた。火薬は地主といつしよに中村誠が下げた。(ロ)発破器のハンドルは原田鐘悦に福士係員の机の中から持つて来てもらつた。(ハ)火薬以外のものは中村が都合してくれた。三坑堅入現場のものを同堀現場へ持つて来て同堀現場のものを持つて来た。中村は電線を都合してくれた。(ニ)井尻は徳田敏明と二・三坑坑務所から電線一本を持つて来た。(ホ)ひそかに物を集めたのは会議で決つたからだ。その会議には大須田、山内、斎藤正夫、地主そのほか三井とか三菱の人らと相談した。(ヘ)井尻と地主は芦別で会つた。その時地主が火薬を持つて来た。発破器や何かは斎藤正夫が持つて来た。やつたのは俺と地主だ。泡喰つて逃げた。失敗した」と。

5、映画「地獄の門」の観映について

(1) 甲第四六五号証(訴外藤谷28.5.4付被告好田検調)乙第三七二号証(同訴外人の28.4.3付訴外芦原司調)では訴外藤谷は、芦別事件の当日である同二七年七月二九日午前一一時頃から訴外井尻夫婦、その子供、訴外石塚とで油谷会館で映画「地獄の門」を見た。その際訴外後藤忠助の奥さんの妹の信ちやんに会つた、と述べているが、

(2) 甲第四七九号証(訴外藤谷の28.8.2付被告金田検調)では訴外藤谷は、油谷で「地獄の門」を見たことはない、これは上芦別の劇場で見た。油谷会館で訴外井尻及びその家族や訴外石塚と見たのは映画「死の街を迯れて」だ、と述べている。

(二)  しかし訴外藤谷は以上の点についての供述も捜査段階でもしばしば否認を繰返し、その理由も併せて述べている。そしてそれには前記二5の当事者間に争のない事実中において記述したもの外、つぎのようなものがある。

1(1) 甲第四六三号証(訴外藤谷の被告好田検調)では訴外藤谷は要旨次のように述べている。

「ところが警察官が代る代るその日の火薬のことで何か知つているだろうとか井尻正夫からダイナマイトのことで何かいわれているだろう、よく考えて思い出せ、と云われて再三取調べを受けた。……最初のうちは知らない、思い出せないと答えていたのです。そのうちに私は家族の事が心配になり何とか言抜けして早く帰して貰おうという気持になり嘘を云おうと思つたのです。取調べの警察官の私に対する尋ね方から見て昨年七、八月頃起つた鉄道爆破事件のことと思われましたので、その事件にうまくつながりがあるように色々な場面を私の頭で考えて警察官から尋ねられる都度思い出したように故意に私の作り話を申し上げたのです。その作り話は(イ)昨年六月下旬三坑坑口の草原で石塚といつしよに井尻正夫から火薬を頼まれたこと、(ロ)七月四日私と井尻昇が六坑捲揚機室から火薬を三坑に運びその使い残りを石塚が飯場に持ち帰つたこと、(ハ)七月二六日頃井尻が鉄道線路のところで石塚と私に口止めしたこと、(ニ)八月七日夕の夕方井尻が鉄道爆破の話をしたことは全部嘘です。(問、君が警察で述べたことがどうして嘘だと証明できるか)当然警察の方が石塚とか井尻とか地主とかをお調べになる事であり、それらをお調べ願えれば私がでたらめな事を申し上げたということがわかると思います」と。

(2) 甲第四六七号証(訴外藤谷の28・5・付原告金田検調)によれば前記二5で記述した当事者間に争いのない事実のほか訴外藤谷は次のように述べている。

「実際今迄云つた様に自分が云い出してしまつた事だし、今更色々考え出して云つているとも云えず、そう云つてしまつたのです。井尻や石塚、中村に対しては何んて謝つていいかわかりません。……本当に申し訳なく思つております。……それは調べられて井尻のことを云つてから自分としては井尻とは親威の関係でもあるし上芦別へは帰れないといつたら(警察官は)そんな事心配ない。家の事もどこかいいところがあつたら見つけてやるからと云われ、自分としてはそれにあまんじようという気持になつたのです。警察官はお前の云つた事はお前が云つたと井尻の耳には入れないといつていましたが、自分としてはとんでもない事をしてしまつたから上芦別へは帰れないと思つていましたし、前にも調べられた時上芦別へは帰れないと云つたのはそんなわけで云つたのです」と。

(3) 甲第四七一号証では検察官被告金田は訴外藤谷に対し「君も一度警察で爆破事件のことに関連して喋つているし本当にやましい事がないというのであれば自分で疑いをなくする様にしなければならないんだがね」と述べている。

(4) 甲第四七二号証(訴外藤谷の被告金田検調)では訴外藤谷は次のように述べている。

「それでまあ云うだけ云えば帰して貰うにいいだろうと思つてあんな出鱈目なこと喋つたんです。自分としては悪かつたが早く帰りたいばかりにそう云つた。井尻でも石塚でも調べて貰えばわかると思い、こんなに長くなるとは思わないで浅はかな考えからだ。警察で調べられている時は精神的に辛かつた。取調べに対しては誰とか云つたと云われたり、アリバイは作れるものだとも云われた。七月四日の火薬のことで石さんを探して聞いて見ればわかるんだと云つたら、死んだ者やいない者と話しても話になるかと云われた。そのうち馬場が見ているといい自分に間違いないと云つていると云われた。井尻昇といつしよに働いているのは四日か五日と云うことがはつきりした」と。

2、甲第三〇号証、第三二号証、第三四号証(いずれも訴外藤谷の証言)によれば、訴外藤谷は第一審刑事公判の証人として捜査段階での自己の供述を全面的に否認し、その理由として「二八年五月頃金田検事に実は自分は知らない。今迄述べたのは全部嘘だ、といつたら又芦別署で調べられもとのように嘘を云うようになつた。自白すれば情状酌量で刑を軽くすることもあると云われ早く出たい一心で嘘を述べた。検察官にも本当のことを云つたら検察官はお前は良心の本当の気持になつていない。これなら取調をしても何もならないと云われた」「釈放されても供述をひるがえすと又ひつぱられるのではないかと思つた。私は嘘を云い放してどこか遠い所へ行つて身を隠そうと思つていた。……そのようにいつ迄経つても何らかの云掛りをつけて勾留を続けられていたので裁判官の面前で真実を述べたらいつまでたつても出してくれないだろう。この際井尻に全部罪をかぶせる供述をして釈放されたなら、何処かへ高飛びしてしまおうと考えた。……警察官から今度お前がおかしな事を云つたら偽証罪になるぞと云われたことがある。検事に述べた事と違うことを云うと又引つぱられるのではないかと云う気持が強くあつた。……弘中(警部補)から金田検事はよい人だから早く自白して早く出して貰えといわれたことがある」と捜査官の取調べの状況を述べている。

四、前記三、(一)1、ないし4で記述した検察官が刑事公判において維持しようとした訴外藤谷一久の供述も又事実に符合しないものであるといわなければならない。

1、同二七年六月二五日頃訴外井尻が三坑坑口附近の草原で訴外石塚に火薬の入手依頼をしたとの事実は前記〔三〕四、2(4)の訴外石塚の供述の検討の際に判断したのと同様である。

2、同年七月四日訴外藤谷が訴外井尻昇とともに六坑捲揚機室から三坑現場ヘダイナマイト、雷管等を運んだとの事実は前掲訴外藤谷の各供述調書のほか甲第五三号証、第一六二号証、第一六六号証、第三一四号証(いずれも訴外井尻昇の証言)、同四三〇号証の二、乙第五号証、第六号証(いずれも同訴外人の訴外金子検調)から見るも、訴外藤谷には訴外大興商事での六坑、三坑勤務中日頃から何回となく、六坑捲揚機室の火薬保管箱から現場に火薬を運んだがその中には或は七月四日訴外井尻昇と運んだことがあつたかも知れない、と云つた以上の記憶がなく、かつこの意味において右七月四日の訴外藤谷らの火薬運搬の事実は全く否定することはできないが、しかしその運んだダイナマイトや雷管の数量についての訴外藤谷の供述はとうてい信用することができないといわなければならない。何故なれば訴外藤谷がその捜査段階でなした各供述の中には何故に作業に使用する以上の火薬を運んだのかについての合理的な説明は全くなされていないが故である。即ち、(イ)もし訴外井尻が訴外石塚に火薬の入手を依頼したという前記三、(一)1の事実を前提にして見ても訴外石塚から火薬を取りに行く前に何らかの例えば火薬を余分に取つて来てほしいといつた指図又は依頼があつたような情況は全く認められないし、又(ロ)訴外藤谷が一方的に気を利かして余分なダイナマイトを持帰つたとすれば三坑現場に戻つてからその残火薬の取扱いについて訴外石塚との間で何らかの話があるべきであるのにかような情況もなく、更に又(ハ)訴外藤谷が誰か係員から六坑捲揚機室の残火薬全部を三坑現場の方に移すように指示を受けていたという情況も見当らず又この点についても自分から気を利かして残火薬を整理しようとし、或は六坑を引継いだ熊谷組の係員から残火薬の撤去を申し渡された結果だとしてもいずれも三坑現場に戻つてからこのことについての協議、相談が同夜先山的立場にあつた訴外石塚との間になされてしかるべきであるのにかような事情も全く認めることができない。

従つて訴外藤谷が七月四日に火薬を運搬した可能性があるにしても、それはただ通常作業に使用する火薬の量以上に運んだと認める余地はないといわなければならない。そうすれば訴外藤谷の捜査段階での火薬の数量などの点についての供述は同訴外人が第一審第六回刑事公判において述べるように(甲第三四号証)「警察官に述べた(火薬の)数量は藤田部長が油谷炭礦へ行つて同炭礦から大興商事へ払い出した火薬の数量と大興商事が使用したと思われる数量を調査し、その結果を差引計算した紙片を私に示して『残火薬はこの程度あつた筈だ』というのでその紙片に書いてあつた数量を根拠にして述べた」というのは単なる弁解とも思われない。

3、訴外中村誠が訴外井尻正夫に頼まれて同二七年七月一二、三日頃火薬を芦別の方に運んだと話したのを聞いたとの点は訴外中村の前記二三、1(3)の供述に符合する事実を指すものと見られるが、その話の内容も訴外中村の右の点の供述と喰違い、又前記二、五2(3)で記述したように訴外石塚守男、同徳田敏明の火薬持出しの事実が否定され、引いては右訴外中村の供述も否定される以上同様に訴外藤谷のこの点についての供述も又架空のものとみなければならない。又その際前記のように訴外藤谷が訴外中村は鯨肉を下げていたとの供述部分は明らかに乙第一一〇号証(訴外聞谷正一の28.7.3付被告金田検調)に符合しない(もつともその後訴外藤谷は右鯨肉を鯖だつたかも知れないと云い変えている。乙第三七九号証訴外藤谷28.7.6付訴外中田司調)。

4、同二七年八月七日七夕の夕方の話は前記三の訴外石塚の供述関係

四、5で記述したと同様であるが、訴外藤谷の右の点に関する供述内容として前記三、(一)4、(イ)の訴外石塚が火薬を運び訴外中村がこれを下げたとの点はいずれも右3で否定され、同(ロ)の訴外原田鐘悦が発破器のハンドルを持出したことも後記〔五〕二のとおり否定され、同(ハ)の訴外中村が都合してくれた母線も前記〔二〕五2(1)で記述したとおり否定され、又同(ニ)の訴外井尻、同徳田が二・三坑坑務所から電線を持ち出したとの点も後記〔五〕一のとおり否定される以上訴外石塚の場合と同様訴外藤谷のこの点の供述も否定されなければならない。

5、なお映画「地獄の門」の観映については後記第四〔一〕六の訴外井尻正夫のアリバイについての個所で述べる。

五、以上のとおり訴外藤谷の供述も又とても自らの体験にもとづいて真実を述べたものとは認めえないものであるところ、何が故に同訴外人がかような虚偽の供述をしたかを考えるならば結局訴外中村、同石塚と同様前記三(二)で記述したような長期の勾留の苦痛と不安に加え、かつ取調べに当つた警察官、検察官の誘導的、強要的取調べに迎合せざるをえなくなつたとの訴外藤谷自身の供述を除外しては他にその原因を求めることができないといわなければならない。そして訴外藤谷は第一審第六回刑事公判で証言した最後で「私としては出たい一心で嘘を述べ、嘘を述べたお蔭で出ることができたのでありますが、その事について非常に苦しい気持で暮して参りました。この法廷での供述こそ真実であることを申し上げておきます」(甲第三四号証)と結んでいる。又同訴外人の妻株外藤谷千恵子は第二審刑事法廷で「夫は嘘をいつて他人をおとし入れたこと悩んでいたのを知つていました。夫は涙もろいし、やかましやで義理堅かつた。夫は他人を罪におとし入れてすまないといつていた。岩見沢の裁判に行つて来てそれから家に寄りつかなくなりました。夫は二九年七月二六日鉄道事故で死にました」(甲第二五四号証)旨述べている。

五 その他の関係人の供述について

一訴外徳田敏明の供述について

(一)1  乙第四一五号証の一、二によれば訴外徳田敏明は昭和二七年七月初旬油谷炭礦二・三坑坑務所から発破線(緑色ゴム線)二把を窃取したとの被疑事実で、同二八年九月五日芦別市警察署に逮捕され、同年九月七日から同月二三日迄勾留されたこと、訴外徳田は当時一九才の少年であつたこと。

2、甲第四三一号証の一ないし六、第四三二号証、乙第一八二号証、第一八三号証、第一八七号証、第一八八号証によればその間訴外徳田について検察官調書六通、司法警察員調書四通、裁判官の証人尋問調書一通が作成されていること。

をいずれも認めることができる。

(二)  訴外徳田の右供述調書中同二八年九月一二日付(検察官訴外金子)供述調書では「同二七年七月初旬の午後八時頃食事を済ませた後、先山の井尻から油をとつて来てくれ、そしていつしよにダイナマイトも持つて来てくれといわれ、二・三坑坑務所に行き油といつしよにダイナマイト一箱と雷管七〜八本一束になつていたのを持つて来て三坑坑口で井尻に渡した。雷管は当然いるだろうと思つて持つて来た」旨なつていること、ところが翌日の同月一三日付(検察官訴外金子)供述調書では「井尻といつしよに二・三坑坑務所の事務所へ行き、井尻が事務室の奥に入つて母線と火薬や雷管を持つて来た。渡された火薬を私が持ち、母線は井尻が持ち二人で三坑に帰つた」旨の供述をなし、さらに同月一五日付(検察官訴外金子)供述調書では「井尻といつしよに事務室に入つたのでなく私は建物の外のアンコ場の方の角で待つていた。帰つたのは三坑ではなく飯場のような気もする」旨述べ又同月一六日付(検察官訴外金子)供述調書でも「飯場へ持つて帰つたか三坑へ持つて帰つたかよくわからない」旨述べているとの各事実は当事者間に争いがない。

(三)  甲第五四号証、第三四五号証(いずれも訴外徳田敏明の証言)によれば訴外徳田は刑事公判において自己の供述を全面的に否定し、その理由を大要つぎのように述べている。

「井尻からダイナマイトや雷管などを持つて来るように指示されたことはない。二・三坑坑務所に母線があつたか否かも知らないし、それを持つて来たこともない。井尻といつしよに行つて持つて来たこともない。坑務所の中にダイナマイトや雷管のあつたことは知らない。……調べの時井尻はそう(盗んだこと)いつている。それを云わなければいつ迄も入れて帰さないといわれたので嘘でも云つて早く出ようと思い嘘をいつた。……検事にも皆そう云つているのだからお前も早くそう云えといわれた。警察でいわなかつたら井尻といつしよに入れるより外に方法はないということを云われた。又藤谷や井尻はお前の事をカッパライのうまい奴だと云つていたと聞かされ彼らに腹が立つた。私は警察でダイナマイトを盗んだと述べた。盗んだ場所は向うから云われたのでそのとおり述べた。……裁判官の前で今迄は嘘だつたというと警察官や検事に嘘を述べたことで処罰されるかも知れないという気もあつた」と。

(四)  前記(二)で記述した訴外徳田の供述はつぎの点で真実とは認めえない。

1、訴外徳田の捜査段階での供述は検察官が刑事公判で維持した諸証拠の中においても訴外中村、同石塚によつてダイナマイト、雷管、発破母線が既に準備されている筈であるのに何が故に訴外井尻、同徳田が二重に、しかも自己の現場にも火薬、雷管が存在するのにわざわざ危険を犯してまでも他の会社である訴外油谷鉱業所の二・三坑坑務所に火薬雷管母線を盗みに入らなければならなかつたのかその合理的理由は全く見出しえず、その諸証拠間においてさえ位置付けの出来ない不合理さがある。

2、甲第五七二号証(三坑七月分操業日報)により同二七年七月一日ないし同月一〇日の間の訴外井尻、同徳田の稼働状況を見るに訴外井尻は、一日ないし五日、七日いずれも三坑堅入一番方、九日三坑堅入二番方、一〇日三坑堅入一番方(ただし一日、二日は空票)で稼働しているのに対し、訴外徳田は四日三坑向堀一番方、八日三坑向堀番方不明、一〇日三坑向堀一番方で稼働していることを認めうる。又甲第五七九号証の二(「大興商事」と表記のある七月分工数簿)でも訴外井尻は二日ないし五日、七日いずれも一番方、九日二番方、訴外徳田は一日ないし四日いずれも一番方、八日、一〇日いずれも一番方との記載がある。そうすれば七月上旬には訴外井尻、同徳田はいずれも作業現場を異にしており、又共に二番方で作業した該当日は存在しない。従つて訴外徳田の述べるような窃盗の事実は否定される。

なお右甲第五七二号証(三坑七月分操業日報)の押収、刑事公判提出関係は前記〔三〕四、1(4)で記述したとおりである。

3、もつとも甲第三一二号証(訴外佐野留之助の証言)、同第二〇号証(同訴外人の証調)、同第三一五号証(同訴外人の被告金田検調)、乙第二八九号証、第二九〇号証(いずれも同訴外人の査、司調)、甲第四九号証、第三三七号証(訴外西浦正博の証言)、同第四三七号証(同訴外人の証調)、乙第三八号証(同訴外人の訴外金子検調)、同第二七七号証(同訴外人の被告田畠司調)によれば同二七年七月上旬頃右二・三坑坑務所では訴外佐野留之助の保管していた発破母線一〜二把が紛失したことのあつたことが認められ、又その頃同坑務所で訴外西浦正博の保管していたダイナマイト二〜三〇本、雷管一〇〜一五本が紛失したのではないかと推測されうるけれども右事実をもつて直ちに前記訴外井尻、同徳田の所為と結びつけうる何ものもないといわなければならない。

(五)  そうすれば訴外徳田がかような虚偽の供述をしなければならなかつた原因を考えてみるに結局前来記述の訴外中村、同石塚、同藤谷らと同様に勾留の不安、苦痛と取調べに当つた捜査官の誘導的取調べの結果と見るより仕方がないといえる。そして前記四、1で記述したような不合理な訴外徳田の供述が何が故に同二八年九月の段階になつて現われたたかは、結局原告らが主張するように、訴外石塚の運搬したとする電気雷管では現場遺留品として存在した番号「5」の刻記された雷管とは結びつかないので敢てこれを結びつけるために捜査官によつて作為されたものではないかとする推測もあながち否定し切れないといわなければならない。

二、訴外原田鐘悦の供述について

(一)1  乙第四一四号証の一、二によれば、訴外原田鐘悦は、昭和二七年六月末頃訴外大興商事の事務所において発破器用鉄ハンドル一丁を窃取した旨の被疑事実により同二八年七月二九日芦別市警察署に逮捕され、同年七月三一日から八月九日まで勾留されたこと、同訴外人は当時一八才の少年であつたこと。

2、甲第四二八号証の一、二、乙第一八四号証ないし第一八六号証によれば右期間訴外原田については検察官調書一通司法警察員調書二通が作成されているほか、右逮捕前である同二八年四月二〇日に司法巡査調書一通、同年七月七日に検察官調書各一通が作成されていること。

を認めうる。

(二)1  訴外原田鐘悦は同二八年八月六日付(検察官訴外金子)供述調書で「僕が井尻さんに鉄でできたハンドルを貸してやつたのは確か昨年六月中頃でなかつたかと思います。……午後五時頃でなかつたかと思いますが僕が大興の事務所にいると井尻さんが一人来て僕に『係員に頼まれて来たがその辺に発破器のハンドルないか』と云つたのです。僕は……係員の福士さん、三好さん、出町さんらが坐つている机の引出しを開けて見ると引出しの左隅に確か全部鉄でできたハンドルだつたと思いますが一丁あつたのでこれを井尻さんにやりました。」「(この時押収にかかるハンドルを示した)私が大興で見たり井尻さんにやつたりしたハンドルに似ております。しかし私が井尻さんにやつたハンドルかどうかわかりません」と述べていることは当事者間に争いがない。

2、乙第一八五号証、第一八六号証(いずれも訴外原田の訴外中田司調)でもほぼ同趣旨の供述をしている。

3、甲第四五号証、第一五五号証、第三二七号証(いずれも訴外原田の証言)によると同訴外人は刑事第一、二審において証言する際なお訴外大興商事(又はその前身たる訴外石狩土建)には全部鉄でできたハンドルがあつたような気がすると述べながらも警察、検察庁での取調べ状況をつぎのように述べている。

「私は井尻正夫にハンドルを渡したことはない……取調の時誰々はこういつているのだからこうではないかという取調べを受けた。そうすると何んだかそのような気になりそうかも知れないといつた。取調べの時『事件は八分通りできている。お前が隠しても他の者が知つているのだどうしてもお前が云わないのならこつちは仕方がないからお前をすぐ刑務所に渡してしまうより他に方法がない』と云われた。そう云われて刑務所に入れられたら大変だと思い恐ろしい思いをした。検事には警察で述べたと同じように云つた。検事に取調べを受ける時警察官から『検事に警察で述べた通りのことを云えば明日にでも出してやる』と云われ、早く出たいために検事にも警察で述べたとおり嘘を述べた。『刑務所に渡すより他に方法がない』といわれたのは逮捕された翌日で中田部長にそう云われた。その時『云えばすぐにでも帰してやる』といわれた」と。

4、乙第一八五号証(訴外原田の訴外中田司調)には訴外原田が取調の際「自分は何も悪いことをしないのに捕まつて泣けて来た」と云つて泣いている状況の記載のあることが認められる。

(三)  次に訴外大興商事の事務室に全部鉄でできたハンドルがあつたか否かについて検討する。

(1) 乙第三九号証(訴外福士佐栄太郎の被告三沢検調)、同第四二号証(同訴外人の訴外金子検調)、同第二九六号証(同訴外人の司調)によれば訴外福士佐栄太郎は検甲第九号鉄製ハンドル(現場遺留品)を「どこかで見たような気がする」「大興商事に全部鉄のハンドルが一丁あつたのを見ている文鎮代りに使つたような記憶がある。(押収の鉄製ハンドルを示す)これによく似ている。鉄製ハンドルを机の引出しの中に入れていた記憶がない。又このハンドルがなくなつた記憶もない」と述べている。

(2) しかしながら甲第八四号証(訴外酒井武の証言)、同第一二号証(訴外三好吉光の証言)、同第一一三号証、第二二六号証(いずれも訴外鷹田成樹の証言)、乙第五四号証(訴外坂下真弥の被告三沢検調)、同第九六号証(訴外佐藤光男の訴外小関検調)によれば当時訴外大興商事の従業員であつた訴外酒井武、同三好吉光、同鷹田成樹、同坂下真弥、同佐藤光男はいずれもかような鉄製のハンドルを見たことがないと否定していることが認められる。

(3) そして甲第二四五号証(訴外福士の証言)、同第二四号証(同訴外人の証調)のほか本件口頭弁論期日における証人福士佐栄太郎の尋問結果では訴外福士も刑事公判以後「鉄製のハンドルはどこかで見た事があるような気がするが思い出せない。私の使用していたのは柄が木製のものでこれではない。大興商事では柄が鉄のものは使用しなかつたと思う。油谷炭礦では柄が木製のものも鉄製のものも使用していたようだ。大興商事の事務所で文鎮代りに使つていたハンドルは柄が鉄でなかつたかと思う。木製だつたかも知れない。これはいつも事務所の机の中に入れていた」と述べている。

(4) そうすれば鉄製ハンドルが訴外大興商事にあつたとの点は全く否定し去ることはできないまでもその可能性は僅少であり大いに疑問とされなければならない。

(四)  さらに本件口頭弁論に提出された捜査段階での各証拠によるも同二七年六月中旬頃訴外井尻が作業現場において発破器のハンドルがないといつて探していたとか或は同訴外人が訴外大興商事の事務所へ取りに行つたとかの情況は前記原田鐘悦の供述及び訴外井尻の供述以外には全く見られずこの点でも不自然さがある。

なお訴外井尻のこのハンドルについての供述は後記第四、〔一〕二、のとおりであるが就中甲第五二八号証(司法警察員被告中村司調)の同訴外人の供述を併せ見る際、結局訴外井尻が鉄製ハンドルを持出したとの事実は否定されざるをえない。

(五)  従つて前記原田鐘悦の捜査段階での供述も措信するに至らず結局右供述は同訴外人が刑事公判で述べているような逮捕、勾留の不安と苦痛及び捜査官の強要的、誘導的、取調べの結果とみるほかない。

六 被告国の偽証作為の主張について

(一) 被告国は以上のような証人、参考人の供述についてつぎのように主張する(準備書面(六)中二(二)及び同書(七))

これに関してとくに留意すべきは捜査段階における被告人に不利益な内容を否定、撤回しようとする証人の証言内容が必らずしも真実とは考えられないことである。たとえば岩城定男の証言(第一審第四五回刑事公判甲第一四八号証)によれば「前回の法廷の後二、三日経てから皆と当時の事を話し合つてみたのですが、その時に違う点がでてきた。皆とは当時現場で働いていた人等のことです。上芦別の私の家であつたと思う。そういうことは一回だけではない。『井尻らはこの事件をやつていない』と見るのが正しいと考え、この事件に勝つために何回も当時勾留された人らが集まつて記憶違いや当時の模様を話し合つてみたのです。会合は前回の法廷の前から行なわれており中村誠、石塚守男、岩城雪春という顔ぶれです」とあるように先づ予断、先入観があつてこれを支持するために過去の記憶を想起しようとする工作が働いているのであるからその証言は必然的に被告人に不利益な供述を否定する方向にのみ流れることになり、この目的にそうように意識的、無意識的に記憶は取捨選択され、真実に故意に目を蔽うことも避け難い状況となつて来ている。したがつて公判廷における被告人に有利な供述がすべて真実であり、捜査過程における被告人に不利益な供述がすべて虚偽であるとするのはきわめて軽卒な判断であり事案を明らかに誤つた事実認定へと導いて行くものである、と。

2、同様の供述は甲第一五七号証、第二一八号証によれば訴外中村誠の第一審第四九回、同石塚守男の第二審第五回の各刑事公判における各証言中にも見られる。

(二) なる程被告国の云うような偽証作為は時にはありうることであろう。しかしながら問題はかような会合を紋切型に偽証工作視してはすべては見失なわれるであろう。事柄は具体的にかような会合の目的、趣旨、内容、参加者等とその証言内容を客観的情況ないし証拠に照して検討されなければならない。

本件芦別事件においては前来記述のように証人、参考人の立場にあつた訴外石塚守男、同中村誠、同藤谷一久、同岩城定男、同徳田敏明、同原田鐘悦らはいずれもかつて訴外大興商事の同じ職場で働らいた従業員達であり、しかも逮捕の必要性の疑問となるような比較的軽微な犯罪を口実にことごとく逮捕、勾留され、そして中には四回、五回と逮捕勾留を蒸し返えされ数ケ月から半年にも及ぶ長期拘禁の中で強要的に取調べが行なわれた経緯から見れば、それらの者はいずれも共に芦別事件の被害者とも云うべき立場に立たされたものと云え、釈放された後に又相寄つて当時の状況などを話し合つたとしても当然の経緯といわなければならない。そして又前来記述のように本件鉄道爆破事件の取調では捜査官の取調べ調書自体からでさえ「誰それがそういつている」「皆がそう云つている」といつた誘導尋問が見られ(例えば甲第五〇四号証、第五〇六号証、第五二八号証、乙第一七一号証、第一七二号証など)そして幾多の虚偽供述(単に公判における証言から見て捜査段階における供述が虚偽だというのではなく捜査段階自体において既に存在した客観的証拠ないし情況から見ての虚偽)がなされたことからみてもかような会合の参加者がお互いの記憶を確かめ合いその結果刑事被告人を無実と見てお互いに協力して真実を明らかにしようとするのは一つの自然な人間的行動であつてあえて非難するにあたらない。

第四訴外井尻正夫、原告地主照の取調べ及び供述について

一  訴外井尻正夫の取調べ及び供述について

一訴外井尻正夫の逮捕、勾留及び取調べ

1  訴外井尻正夫が昭和二八年三月二九日火薬類取締法違反(甲第一号証の二によれば、訴外井尻が原告地主と共謀の上法定の除外事由がないのに同二七年七月頃訴外大興商事第二寮において新白梅ダイナマイト二〇本入三箱位、電気雷管十数本位を所持したとの事実)で逮捕、勾留され、同年四月一八日右事実について起訴されて更に引き続き勾留され、同二八年九月六日に発破器窃盗(甲第一号証の三によれば訴外井尻が原告地主と共謀の上同二七年六月中旬頃訴外大興商事第三坑附近において同訴外商事所有の鳥居式一〇発掛電気発破器一台を窃取したとの事実)として追記訴され、そして同年九月一七日本件芦別鉄道爆破事件の被告人として電汽車往来危険罪及び爆発物取締罰則違反(甲第一号証の一によれば、訴外井尻、原告地主は外数名の者と共謀の上人の身体、財産を害しようとする目的で、同二七年七月二九日芦別市字農区、国鉄根室線滝川起点二四キロメートル一八一附近の鉄道線路に新白梅ダイナマイト数本を仕掛け、これに雷管、発破母線を装置した上電気発破器で点火爆破させて同所軌条約三〇センチメートルを損壊して電汽車往来の危険を発生させたとの事実)として追起訴され引続き身柄を勾留されていたとの事実は前記第一一で記述したとおり当事者間に争いがない。

2  甲第四九三号証ないし第五二四号証、第五二五号証の一、二、第五二六号証ないし第五三二号証によれば右期間内に訴外井尻につき検察官調書一三通、司法警察員調書二六通、裁判官証人尋問調書二通が作成されていることが認められる。なお訴外井尻を取調べた検察官が被告好田政一、同高木一であることは当事者間に争いがない。

二訴外井尻正夫の供述について当事者間に争いのない事実

1  訴外井尻は昭和二八年九月一〇日付裁判官の証人尋問調書において「同人(石塚)に火薬の入手方を頼んだ事があります。その日は確か六月の二七、八日頃と記憶しておりますが、昼食を終え、午後一時頃……昼休みの時間に石塚藤谷と三人で六坑ズリ捨場の…草原に寝転んで休んだのであります。・・私から石塚に対し地主から話のあつた平岸の炭素工場の解体作業に関する話を持出し…この解体作業が始つたら行つてみないか、賃金も堅いと聞いているし、更に大煙筒を倒す仕事に火薬が必要であること、その必要な火薬を地主に何とかしてくれと頼まれた事を話してから」前記のように訴外石塚に火薬を連んでくれと頼み、同訴外人はこれを引受ける返事をしたこと、なお訴外藤谷には頼まなかつたが同訴外人は話を聞いて知つていたであろう旨述べ更に「その外石塚に対しては何時迄にどれ位の火薬を持つて来るようにと具体的な指図は別にしませんでした」と述べていること。

2  訴外井尻の同二八年八月二三日付(司法警察員被告中村)供述調書には、問「さてそれはどういう把手であつたろうかなあ」答「それはやつぱり木の柄の把手ですよ」問「だつてお前、渡した御本尊のマンチャン(訴外原田鐘悦のこと)は木の柄の把手ではないとはつきり云つているよ。兎に角事実に合うように話はするもんだよ。君はすぐ話の先廻りをして物事を判断するからいけないよ」…答「どう考えて見ても木の柄のついた把手なんですよ」問「君がいくら木の柄の把手を受取つて行つたと通そうと思つているが実際には君の手に渡したオンチャンが君の云うように普段使つていた把手と違つた把手であるからはつきり原田のオンチャンは言明しているんだよ。それや君の云う事が通らないんだよ」答「通らないから鉄の把手受取つて行つた事になるんですよ」問「通らないからとはおかしいものだな。オンチヤンが手渡したのと君が受取つたのが違うからいうんだよ。その鉄のハンドル受取つて行つたのに間違いないのか」答「間違いないです」との記載があること。

3  検察官被告高木は同二八年五月二〇日訴外井尻について同訴外人の共産党との関係を調べたこと。検察官訴外小関正平は訴外井尻に対し、同年五月二七日、二八日及び六月四日「今度脱党届を出したのは本当に脱党する気で出したのか」「党員としてどんな活動をしたのか」「明礦の細胞にはどんな友人がるか」「飯場にいた党員の氏名は」などと質問をし調書をとつていること。

4  訴外井尻の同年九月一三日付(司法警察員訴外館)供述調書には、問「お前の云うことはいろいろな面から信用ができないではないか。共産党がきらいだから脱党したといいながらそれらと連りをもつている。お前が党員でなければ何のために党が特弁までも立ててお前を応援する。その理由は僕にはわからないが」答答「共産党の弁護士を頼んだのは俺の家内だ。それには誰かが家内に云つたのかも知れない。自分としても官選弁護人を頼んでみたが頼りがない。金でも沢山出せば或はもつと力を入れてくれるかも知れない。面会にも来てくれる。しかし俺には金がない。仕方がないから杉之原先生を頼んだのだ」問「僕の云うのは弁護人を誰に頼もうとお前の自由だ。悪いとは云わん。ただお前がこの事件の取調べを受けるに当つて有利だという点からカモフラージの脱党ではないか、それなら必要がないのだ。党員であろうとなかろうと吾々の取調べには無関係なのだ」答「今迄の事だつて俺が嘘を云えば通るし、本当のことを云つても何一つ取上げてくれないではないか」と記載されていること。

しかも訴外館は起訴後のみならず第一回刑事公判後も訴外井尻の取調べを続けていること、訴外井尻の同二八年一〇月一日付(司法警察員訴外館)供述書には、問「この前杉之原が裁判所でお前に会つた時これはデッチ上げ事件だといつていたそうだが、それには何か根拠があつていつてるのかどうかわからんが、お前もそう考えているのか」答なし、問「誰が何んと云おうとお前の事はお前が考えなければならない。お前の家庭の責任もお前でなければお前が今頼りにするという人達もお前の将来や家庭の事まで保証するとか責任を持つてくれると考えられるか、ただ利用されると云うようなことは考えられないか」と記載されていること。

5  (1)訴外井尻の同二八年五月二〇日付の(作成は同月二一日付けのもの)(検察官被告高木)供述調書には、問「しかしダイナマイトを石塚が君の家に運んだ事は客観的に間違いないと思うがどうか」供述人は静かにうなずいた上、答「弟の昇もそういつていますからね」問「そうでも君は知らないと云つて筋が通らないではないかね」答「持つていればわからんことないです」との記載のあること。

(2) 訴外井尻の同年五月二〇日付(作成同日付)(検察官被告高木)の供述調書には、問「今調べられている気持は」答「『お前はあんなひどい事をしやがつて何をいつているのか、お前もお前の家族も世間を大手を振つて歩けないぞ』と云われ、自分に覚えのない事ばかり聞かれるので口惜いです」この時供述人は涙を流しこれを拭きながら供述した。問「君が覚えのない事というと」答「鉄道爆破をやつたろうとか、石塚らからダイナマイトを受取つてどうしたなどという事です。僕は全然知らない事なので言い様がないのです。僕はこの事件の犯人の挙る迄入れて置いて調べろと云つたんだ。もう決心しているんだ」との問答記載のあること。

(3) 訴外井尻の同二八年八月二〇日付(司法警察員訴外館)に対する供述書には訴外館が訴外井尻に対し訴外石塚、同藤谷、同中村、同原田の供述内容を告げて取調べを行なつている記載のあること。

(4) 訴外井尻の同年八月二二日付(司法警察員被告中村)供述調書には、問「君はこの前涙を流してこれ以上頑張つても押通して行ける自信がなくなつたんだという事を自分で云つていたが、これはどういう事なのか」答「これは反証を挙げられる自信がない事なのです」問「もつと深く考えればどう云う事なのか」答「それは諦めるということです」問「君の云う様に関係していなければ何も諦める必要もないしまた反証を幾らでも挙られるのではないか」……答「それを考えるだけ俺は能力はないし、周辺がこうなつている以上どうしようもないんです」問「それじや暗黙のうちに関係者だと認めている様なもんだが」答「いかに自分が弁明してもその様な事実になつているし、反証できないから時の流れに沿つて行くより無いです」との問答記載があること。

(5) その後翌八月二三日訴外井尻は司法警察員被告中村に対し、訴外原田からハンドルを受取つたと供述しさらに八月二四日、二五日訴外井尻は司法警察員訴外館の取調べに対して訴外石塚に火薬の持出しを依頼したこと、発破器、発破母線を盗み出し、それを原告地主に渡したことを認めていること。

(6) しかしその翌日八月二六日に訴外井尻は再び否認していること、訴外井尻の同二八年八月二六日付(司法警察員訴外館)供述調書では訴外館はつぎのように取調べていること、問「お前は何故今朝飯を食べなかつたり取調べを拒否するような態度をとるのだ」答「俺はもう駄目だ」問「何故駄目なのだ」答「俺が何を云つても通らない」問「どういう訳だ」答「俺が昨日まで云つた事は全部心にもない事を云つたので何も貴方達が云つているような事はない」問「昨日までのお前の供述はどうなのだ」答「全部嘘です」……問「何故そのような嘘を云つたのだ」答「私が何んぼ知らんと云つても石塚や藤谷らがいろいろな事を証言しており私が知らんと云つても通らん。どうせ通らんものなら何もかも俺が背負つて罪を着て一日も早く帰つた方が得だと思つたから」問「何によつて昨日までの話をしたか」答「今まで調べられて来たのであり、又石塚らが言つている事も聞いてこれに合せて話をした」問「罪を着るというのは何の罪だ」答「鉄道爆破です」

(7) 更に訴外井尻の同年八月二八日付(司法警察員訴外館)供述調書でも引き続き同様の取調べがなされていること、右同供述調書には、問「どうだ考えたか」答「何もいう事はない。どうにでもしてくれ」問「何故そのような態度をとるのか」答「自分が何を云おうと通らないからどうなつてもいいです」問「何そんなにやけを起す事はないではないか、判らない事は判らないで卒直に云えば相手は納得するのではないか、誤魔化すような事を云うから無理がかかるのではないか」答「何も誤魔化しなんかしない」問「それでは何んのために正直に云わないのだ」答「知つているものは知つていると云つているし、知らないものは知らないと云うだけです。皆が自分の云う事を信用しないのではないか、検事は母線をお前が盗んで行つた、鉄道爆破はお前が首謀者だ。何をいつても駄目だと頭からどなりつけるし、その他取調べの者は皆鉄道事件はお前に間違いないと云うし、自分は何んと云つていいか判らん。記憶のないものはないと云うより仕方がない」問「自分の身に何らやましい事がなければ誰が何んと云つても嘘を云つたり隠し事を云う必要がないではないか。お前は嘘を云わんと云えるか」答えず、なる記載のあること。

(8) 同年八月二九日訴外井尻は司法警察員訴外館に対して火薬と発破母線とハンドルを原告地主に渡したと供述していること、しかもその中で訴外原田から受取つたハンドルが全部鉄でできていると述べていること、同年九月三日、同月四日訴外井尻は検察官訴外志村利造に対し訴外館に述べたのとほぼ同趣旨の供述をしていること、同月一三日以降訴外井尻は最終的に否認していること。

6  同年九月八日訴外井尻は滝川簡易裁判所で行なわれた公判前の裁判官の証人尋問の際、それまでの自白を覆えしたこと、その際立会検察官訴外志村利造は訴外井尻に対する尋問の機会を与えられたが何らの尋問を行なわなかつたこと、同月一〇日訴外井尻の裁判官の証人尋問が行なわれ右同日付証人尋問調書のとおりの供述がなされていること。

の各事実は当事者間に争いがない。

三、訴外井尻正夫の供述について

(一)  訴外井尻が捜査段階においてなした数多くの供述の中で最も全面的に自供していると見られるのは同二八年八月二四日付同月二五日付(二通)の司法警察員訴外館に対する供述(甲第四九三号証、第五〇七号証、第五〇八号証)である。

今右各供述調書によつて訴外井尻の供述を検討してみる。

1 右各供述調書に見られる訴外井尻の供述内容は大要次のとおりである。

(1) 同二七年六月中頃六坑副斜で発破器を使おうとしたがハンドルがなかつたので事務所の訴外原田から代りのものを借りて来た。これが全部鉄でできていた。家に持帰つて納屋の棚の上にほおり込んでおいた。

(2) 六月一七日、八日頃原告地主が子供を連れて訴外野田と来た。同原告は平岸の炭素工場解体の話をして火薬を何とか手に入れてくれといつた。自分は今現場の責任者なので直接やれない他の者に頼んでやつてもいいと云つた。

(3) 六月二一日、二日頃三坑堅入へ発破器を取りに行つたら火薬置場の所にあり誰もいなかつたのでスツコの中に入れ、石炭を入れて皆といつしよに帰つた。この時ハンドルはなかつた。発破器は納屋の棚の上に置いた。

(4) 六月二七、八日頃、昼休み六坑のズリ捨場で寝ころんでいた時、訴外石塚と同藤谷に平岸の炭素工場の解体及び煙筒を倒すのに火薬が必要なことを話し、訴外石塚に「火薬はお前が運んでくれないか」と頼んだ。

(5) 六月末頃訴外中村との間で、訴外中村が同月二〇日頃訴外福士係員から貰つた新らしい母線を交換して一〇日程使つて七月五日頃飯場に持ち帰つた。

(6) 七月四日午後一〇時三〇分頃訴外石塚が新白梅ダイナマイト三箱と雷管一〇本位を飯場に持つて来た。納屋の横の棚の下に隠しておいた。

(7) 七月一四、五日頃午後三時頃原告地主に火薬と雷管を渡した。

(8) 七月二〇日頃午後三時頃原告地主に発破器、発破母線、ハンドルを渡した。

2、前掲外井尻の各供述調書を見るとき右の供述は訴外井尻が同二八年三月二九日に逮捕されて以来漸次的に形成されたのではなく、逮捕後約五ケ月を経過した八月下旬から忽然として集約的に現われ供述されているものであつて(それまでは訴外井尻はいずれも否認している)、その自供の直前である同年八月二二日には前記二、5、(4)で記述した司法警察員被告中村と訴外井尻との「これ以上押し切れない云々」の問答があり、そしてその後も訴外井尻は否認自供、否認、一部自供、否認を繰返しており、そして更に検察官は同二八年四月一八日前記一、1で記述したように、訴外井尻をダイナマイト二〇本入三箱、電気雷管十数本位を所持したという事実で起訴したが、右起訴事実は本件芦別鉄道爆破事件から見ると全くの予備的な事実にすぎず、右起訴はもつぱら訴外井尻をして芦別事件の本案についての取調べを進めかつ自供を求める目的で被疑者勾留を事実上継続延長するためになされたものとしかいいようがなく、ここでも前記第三、〔一〕で記述したように被疑者、被告人についても勾留を自供追求の手段として認めず、又被疑者勾留を最大限二〇日に制限した刑事訴訟法(同法第六〇条、第二〇八条)の規定が大きく逸脱されていることを認めることができる。

3 しかも訴外井尻の供述内容自体を検討して見るに

(1) 前記1(1)のハンドルの点は前記第三、〔五〕二訴外原田鐘悦の供述において検討したとおり結局否定されざるをえず、

(2) 同1(2)の原告地主の火薬依頼の点は前掲訴外井尻の各供述調書、又後記原告地主の各供述調書からは訴外井尻、原告地主が共に共産党員として活動していた当時或は同人ら又その他の関係者らが井尻飯場に出入りし、時には相談協議などを行なつたことがあるであろうこと位は推測するのに難くないけれども、その火薬依頼の話は結局前記第三〔三〕訴外石塚の供述二ないし四1で記述したように否定されるので、訴外井尻のこの点についての供述も又否定されざるをえず、

(3) 同(3)の発破器窃取の点は前記第二、〔一〕発破器について記述した如く、現場遺留品である証第二一号発破器は訴外大興商事に存在せず、同訴外会社の六坑、三坑で使用されていた証第一二九号発破器は紛失したあと発見拾得されている以上訴外井尻のこの点についての供述は当然否定され、

(4) 同(4)、(6)の訴外石塚らに対する火薬依頼、及び訴外石塚の火薬等運搬の点も前記第三〔三〕訴外石塚の供述二ないし四2で記述したように否定されるので訴外井尻のこの点についての供述も否定を免れず、

(5) 同(5)の発破母線の点も前掲訴外中村誠の各供述調書及び前記訴外井尻の各供述から見ても当時訴外大興商事の六坑、三坑の各現場では適宜有り合わせの母線を交互に使い、その間或は訴外中村と訴外井尻は母線の受渡、又は交換などを日頃何回かはなしたであろうと云つた事情は認めうるまでも、訴外井尻が訴外中村と交換した新らしい母線を飯場に持帰つたとの点は他にこれに沿う証拠もなく、ましてや前記第三〔三〕訴外中村の供述三、ないし五、で記述したように右発破母線が現場遺留品として発見された検甲第三号緑色被覆電線であるとの結びつきを推測させるような点は否定されるので訴外井尻のこの点に関する供述も又否定され、

(6) 従つて同(7)(8)の訴外井尻が原告地主に火薬、雷管、発破器、ハンドル、母線を手交したとの点についての供述も又その前提を欠き否定されざるを得ない。

四1  そうすれば訴外井尻が本件芦別市事件について何が故にかようにことごとく否定せざるをえないような数々の内容虚偽の供述をなしたかを考えるに、結局前記第三で記述した各参考人と同様に長期にわたる勾留による肉体的、精神的不安、苦痛と、それに加えての前記二4で記述したような検察官、警察官の供述調書の記載自体からもうかがえる捜査官の訴外井尻に対する強要的、誘導的取調の結果にほかならないと認められる。

2  なおこの点につき甲第一三三号証(訴外井尻の被供)によれば訴外井尻は第一審第三九回刑事公判で次のように述べている。

「検察官に対して任意に供述しなかつた。ないことを云わなければならない程強制的であつた。砂川地区警察署に来た時検察官は原田鐘悦、徳田敏明、井尻昇、岩城定男、岩城雪春、中村誠、藤谷一久の各調書を出して『これだけの人間が云つているのにお前が知らないといつても罪は逃げられない。然かし検事としてはお前がしたとは思つていない。お前はただ品物を渡しただけだと思う。お前が云えば勾留を解いてやるが、もし云わなければどうしてもお前に全部の罪を負つて貰わなければならない。その罪は死刑又は無期懲役に当る罪だ』と供述を強制した。……検察官は取調べの時『函館から稚内まで参考人をぶち込んであるがそれらの者は皆終着駅に着いて出ている』……そして『云わんのはお前だけだ。お前が最後に残れば爆破事件の全責任をお前に負つて貰わねばならん。列車をひつくり返えすような行為をした者は死刑か無期懲役なんだ。だがどこへ行つてもお前を悪いといつている者はいない。お前はただ地主に品物を渡しただけだと思う。お前が地主に品物を渡したと云えば一年か二年刑務所へ行くだけでよいだろう。早くその事を云つて早く出ろ』と云われ、長期の勾留に耐えかねて早く出たいばかりに真実に反する供述をした。……中田部長、中村部長、弘中警部補、館警部補、好田副検事らからいずれも『地主もお前から火薬を貰つたといつている』といわれたことがあつた」と。

このような供述はその具体性、詳述性から見ても単に訴外井尻の口実、弁解とは思われないのは勿論、前記のように同訴外人の事件についての自供がことごとく否定されざるをえない状況の下では同訴外人に対する捜査段階での威迫強要、誘導的な取調べ状況を如実に物語つているものといえよう。

五訴外井尻の同二八年九月八日及び同月一〇日の裁判官の証人尋問の際の供述について

1  同二八年九月八日及び同月一〇日訴外井尻の裁判官証人尋問が行なわれ、訴外井尻は八日の尋問の際にはそれまでの捜査官に対する自供を覆えして否認し、その際立会検察官訴外志村利造は尋問の機会を与えられながら何らの尋問を行なわず、同月一〇日再度の尋問が行なわれ、同日付の証人尋問調書記載のとおりの供述がなされていることは前記(二)、5で記述したとおり当事者間に争いがない。

2  右両日の訴外井尻の証人尋問調書の内容を対比してその間の経緯を見るに

(1) 甲第五〇一号証(訴外井尻28.9.8付証調)によると九月八日の供述の大要はつぎのとおりである。「中村と母線の交換をしたことはない。……中村が(母線を)貰つても別に中村個人のものでもないし、又中村に保管責任があるわけではない。中村は新しい母線を(三坑旧坑道の)火薬置場においていた。私もその後自分の現場で使つた。その母線はどうなつたかわからない。この点に関し検察官に述べたことは出鱈目だ。……芦別署や岩見沢簡裁で被疑者として石塚や藤谷の尋問に立会い、彼らの供述内容もわかり又長く勾留されている自分や家族のことを考え合わせ、多少やけ気味の処から警察官や検察官に合うように供述した。……母線を地主に渡したこともない。……六月一〇日原田鐘悦からハンドルを受取つたことはある。現場にハンドルが見つからなかつたので、……貰つたのは鉄製だつたか木製だつたかわからない。又その後どうなつたかわからない。自宅に持帰つた記憶もない。……地主にハンドルを渡したこともない。六月一七、八日頃の午後三時頃地主主は党の問題か何かで飯場に来たことはある。野田も来たのは間違いない。その時平岸の炭素工場の話は出た。そして煙筒を倒すのに火薬を用いればよいと話した。しかし火薬を都合してくれと頼まれたことはない。石塚に火薬の入手を頼んだことはない。地主に火薬を渡したこともない」

(2) かくして前記したとおり立会検察官は証人尋問権すら行使せず退廷しながらその後の警察、検察庁における捜査官の訴外井尻に対する態度は当時芦別市警察署に勤務し芦別事件の捜査にも関与していた警察官訴外工藤春三は本件口頭弁論期日における証人尋問人中で、訴外井尻に対する取調べは全く無理などなく行なわれたと述べながらも「九月八日と一〇日に(訴外井尻は)滝川の裁判所に行つているがその間に館さんと井尻さんは討論していたことはあつた」と奇妙な証言をなしており(第二七回口頭弁論期日での同訴外人の尋問結果)、又前掲甲第一三三号証(訴外井尻の被供)では訴外井尻は「裁判官にも一回目は否認したが二回目の前に警察官に『お前は何故今迄どおりに供述しなかつたのか、お前は偽証罪を犯した』と強烈に取調べられ、その結果一日か二日置いて又裁判所に呼ばれたので認めた」……「志村検事は『男が一旦云つた事を何故ひつくり返したのか。お前はそれでもキンタマをぶら下げているのか』……『これからもう一度証人尋問させてやるから今度こそ本当のことを云え、そうすれば偽証罪だけは免れさせてやる。お前は地主の前では云い難いだろうと思うからこうさせてやるのだ』といつた」と述べている。

(3) 甲第五〇〇号証(訴外井尻の28.9.9付訴外志村検調)では検察官訴外志村利造は同年九月九日訴外井尻を取調べており、その際に訴外井尻は大要次のように述べている。「昨七日(八日の誤り)地主に対する爆発物取締罰則違反、電汽車往来危険罪の証人として滝川簡裁の裁判官から尋問された。その時中村と新母線を交換したこと、それを地主に渡したのは嘘だと云つたのは偽りをいつたものだ。又地主から火薬を依頼されたことはない、石塚に入手を頼んだこともない、又それを地主に渡したこともないといつたことは偽りである。嘘を云つたのは判事に本当の事を云えなかつたからだ。もう一度尋問してほしい。今度は本当のことを云う。……。と。

右供述中で訴外井尻が「何が故に判事に嘘を述べたか」の理由は、前記のように同訴外人の「何が故に捜査官に嘘を述べたか」の理由とを対比して見る時前者は何らの具体的根拠も示されておらず全く形だけに終つている。

(4) 甲第五〇二号証(訴外井尻28.9.10付証調)によれば翌九月一〇日行なわれた再度の裁判官の証人尋問において、訴外井尻は大要「七月一〇日頃中村の新しい母線を飯場に持帰つた。六月一七日、八日頃地主から火薬を依頼された七月一八日頃地主に母線を渡した。六月一〇日頃原田からハンドル貰つたがその後どうしたかわからない。事務所へ返えした覚もない。六月二七、八日頃石塚に火薬の入手を依頼した。七月四日石塚が火薬や雷管を飯場に持つて来た。七月一四、五日頃地主に火薬を渡した」と発破器の窃取を除いて自供している。

3  元来刑事訴訟法において法廷における供述が捜査段階における供述録取書よりも証拠能力において優越するとされる(刑事訴訟法第三二〇条ないし第三二二条、第三二八条参照)のは前者が後者よりもその供述の任意性の確保が確実であるとする点にあることは云うまでもない。不任意な供述の証拠能力を否定する趣旨は被告人の人権の保護の立場からのみならず更に供述自体に捜査過程での虚偽の混入するのを極力排除し、もつて実体的真実の発見をより容易たらしめようとするに外ならない。(同法第一条)、法廷における任意なる供述の真偽は原則として当事者の反対尋問権の行使によつて確保さるべきものである。(同法第一五七条、第二九七条、第三〇八条参照)しかるに前記した検察官の態度は被疑者の捜査段階における供述をその心理的圧迫から免れる以前に裁判官の面前に持出し、形式的に法廷における供述としての証拠能力を獲得しようと意図していたものと云うほかなく公正さを欠くものであつたことも多言を要しない。

六訴外井尻正夫のアリバイについて

(一)  甲第四九六号証(訴外井尻の被告好田検調)、同第四九七号証(同訴外人の被告高木検調)、同五三一号証、第五三二号証(いずれも同訴外人の訴外小関検調)、同第五〇六号証、第五一五号証、第五二五号証の二(いずれも同訴外人の訴外舘司調)からは訴外井尻は本件芦別事件の当日同二七年七月二九日は夜油谷会館で妻光子、子供及び訴外石塚、同藤谷らとともに映画を見た旨供述している。そして右供述は甲第四九六号証の同二八年五月一一日付(検察官被告好田)供述調書に現われて以来一貫して変ることなく又他にこれと矛盾する供述もなしていない。(もつとも前掲甲第四九六号証、第五〇六号証、第五三二号証では同二七年七月末頃上芦別に下がつた旨供述しているが、右は七月三〇日、三一日上芦別の妻の実家である訴外岩城辰雄方に行つたということであつて右二九日の所在を否定する供述ではない)そしてその見た映画の題名、内容については甲第四九六号証(28.5.11付)では「豪傑三人男という題で、阪妻、大河内、月形という役者が出たと思う」となつているが甲第四九七号証(28.5.22付)以降は一貫して「題は忘れたが、長谷川一夫主演の落人が五つの鍵で秘密を探るという映画だつた」(甲第四九七号証)、「映画は長谷川一夫主演の捕物映画であつた。宝物を探すのに五つの鍵がいる。アチヤコ、エンタツ(もう一人の名を考えているように)」(甲第五〇六号証)、「長谷川が銭形平次、アチヤコ、エンタツ、杉狂児、水戸光子もいた。宝蔵の扉を開く話だつた……」(甲第五一五号証)、「その三浦光子は肥つたとか長谷川一夫はにやけ臭いという話をした記憶がある」(甲第五二五号証の二)となつており、右は乙第三七七号証(訴外藤谷一久の訴外中田司調)から見ても映画「地獄の門」であり、又甲第四一六号証(訴外永田松太郎の答申書)によれば七月二九日油谷会館では映画「地獄の門」を午後〇時からと午後七時からの二回上映したことが認められる。

(二)1  この点について訴外井尻がいつしよに見たという訴外藤谷一久の供述を見てみよう。

(1) 乙第三七二号証(訴外藤谷の28.4.3付訴外芦原司調)、甲第四六五号証(同訴外人の28.5.4付被告好田検調)では「七月二九日午前一一時から井尻夫婦、子供、石塚と油谷会館で映画「地獄の門」を見た。映画館の前で築別炭礦で一緒だつた後藤忠助に会つた。又会館の中で後藤の奥さん、奥さんの妹信ちやんに会つた」旨述べている。

(2) 他方この「信ちやん」に当ると見られる訴外伊藤信子は乙第四〇一号証(同訴外人の28.5.20付査調)によれば「七月頃油谷会館で井尻、藤谷らに会つた。自分は子供がいるので映画はほとんど昼行く、地獄の門という映画は見たことがある」と述べ、必ずしも「地獄の門」を昼見て訴外藤谷に会つたとはいつていない。

(3) ところが甲第四六九号証(訴外藤谷の28.5.26付被告会田検調)では「この日(七月二九日)……昼に後藤忠さんに会つている。でもこの日坑内に入つて仕事をしていると思う。信ちやんという人にこの日会つているので調べて見てくれといつたら、その映画は二九日でその時藤谷さんとは昼間会つているといわれたんです。それで自分は昼間見ていると思うようになつたのです。最初夜映画を見てその晩飯場に泊つたように思つていたんです。それ以外にも信ちやんに会つたような気がする。自分は一回より会館に映画を見に行つていない筈だが。自分としては夜映画見ていると思う。その日はいつものように仕事をしたと思う」となつている。

なお甲第五七二号証(三坑七月分操業証)によれば訴外藤谷は訴外井尻、同石塚らとともに三坑堅入で一番方として稼働した旨の記載がある。従つて訴外藤谷らが昼間映画を見る可能性はない。

(4) ところがそれまで七月二九日映画「地獄の門」を昼見たかのみがはつきりしなかつた訴外藤谷の供述は甲第四七五号証(訴外藤谷の28.6.21付被告金田検調)から奇妙な転回を見る。右甲号証によると「自分は地獄の門を昼見ている。飯場の若い連中とだ。信ちやんに会つた時井尻がいたような気がしない。井尻が映画に行つているのはもつと後で自分が当麻に行つている時(同二七年九月上旬)のことだ」と変り、乙第三七七号証(同訴外人の28.7.3付訴外中田司調)では「大興商事をやめる前飯場で誰いうともなく映画を見に行こうと云つて油谷会館で井尻正夫、光子、石塚、福田、正夫の子供二人で二階に上がつて『死の街を逃れて』という映画(前掲甲第四一六号証答申書によればこの映画は七月二二日油谷会館で上映されている)を見た。……当麻へ行く前『次郎長』(上芦別の飲屋の名)のところに地獄の門のビラがあつたので何んということなしに井尻正夫に映画の内容の話をした、『次郎長』のところから消防番屋の辺りまで話をした」と述べてその図面まで書いている。更に甲第四七九号証(訴外藤谷の28.8.2付被告金田検調)では油谷会館で訴外井尻夫婦、子供、石塚らといつしよに見たのは「死の街を逃れて」と云う映画だと述べながら続いて「油谷で『地獄の門』を見たというのは嘘だ。私が当麻に行く頃上芦別市街の映劇で見た。……井尻に映画の話をしたのは当麻に行つてからのようだ。……『次郎長』から高橋パン屋に行く辺りでだ……と述べ、甲第四八一号証(訴外藤谷の28.8.21付被告金田検調)でも同様に「地獄の門」は油谷でなく上芦別で見たと述べている。

(5) 甲第三二号証(訴外藤谷の28.11.30付証言)によれば訴外藤谷は第一審第五回刑事公判で「油谷会館で映画を一回見た、七月末頃であつた。映画『地獄の門』だ……会館の二階で真中より左寄りで井尻正夫、光子、その子供二人、石塚守男といつしよにいた。……遠藤(前記伊藤の旧姓)信子は知つているが油谷会館であつた覚えがない」と述べ、併せて前記第三、〔四〕、三、(二)、2で記述したような同訴人に対する捜査官の取調状況を述べている。

2  訴外石塚守男の七月二九日、同三〇日の訴外井尻正夫の行動についての供述は甲第四三九号証、第四四〇号証、第四四六号証(いずれも訴外石塚の被告金田検調)同第四五二号証(同訴外人の被告高木検調)、乙第三九五号証(同訴外人の被告中村司調)に見られる。

(1) その代表的なものとして甲第四四六号証(同訴外人の28.5.7付被告金田検調)によると訴外石塚はつぎのように述べている。「七月二九日一番方仕事を終えて二時半頃事務所へ行つた。……午後四時のサイレンが鳴つて井尻正夫に帰らないかと云つたら井尻は一寸用事があるから先へ帰つてくれといつた。五時頃夕食の時光子さんに井尻はどこへ行つたと聞いたら上芦別の親のところへ行くと云つて下がつたといつた。私は井尻は鉄道爆破に下がつたと思つた。夕食後光子は『映画の札をもらつたから今晩映画に行く』といつた。光子は滅多に映画に行かないから『珍しいね』といつた。……私も映画に行くことにした。藤谷といつしよに事務所に行き一人三〇円づつ貰つた。そして油谷会館に行き四〇円位払つて入つた。二階の観覧席中央の所に井尻光子がいたのでそこへ行つたら席がとつてあり光子の左側に腰かけて見た。藤谷は光子の左側だつた。光子は女の子を抱いていた。間もなく福田は井尻の男の子を連れて来た。……映画は地獄の門、俳優は長谷川一夫、三浦光子で捕物帳だつた。光子は一〇〇円札で子供にキャンデーを買つていた。九時〜九時半頃飯場に帰つた。井尻はこの日帰つて来なかつた。……その翌日井尻は一〇分程遅れて事務所へ来た。『今帰つて来た』といつていた。」旨述べている。

(2) 甲第三八号証(訴外石塚の証言)訴外石塚は第一審第八回刑事公判でつぎのような証言している。「七月二九日は一番方だつた。……四時か四時半頃飯場に帰つた。それから風呂に行き夕食をした。そのあと映画「地獄の門」を見に行つた。……正夫、光子とその子供二人、藤谷と私だつた。飯場を出たのは光子と子供二人は先だ。その他は少し遅れて出た。飯場で食事をしてから私、正夫、藤谷の三人が大興の事務所へ遊びに行きそこで映画を見に行こうと云うことになつた。……切符は正夫が三人分まとめて買つてくれた。会館では二階のやや中央の座席で見た。その時福田に会つた。映画は六時に始つた。終つてから皆で飯場に帰つた。藤谷は上芦別に帰らなかつた。翌七月三〇日は一番方で正夫、福田、藤谷と共に三坑堅入に入つて働いた。」と。この際の証言で訴外石塚は前記第三〔三〕二6で当事者間に争いのない事実として記述した捜査段階での取調状況を述べている。

(三)  被告国は原告井尻光子が第一審第二一回刑事公判、第二審昭和三四年一〇月二八日公判準備期日において「七月二九日夫正夫といつしよに油谷会館で映画『地獄の門』を見た」と証言する中で「七月二九日五時半一寸前大興商事の事務所で映画の入場券を貰い、会館で席をとつて一旦家に帰り、正夫の券を置いて来た」(甲第七〇号証、第二五二号証、なお第七三号証も同旨)と述べている点をとらえ、この供述は訴外大興商事で当時会計係をしていた訴外三好吉光が第二審第四五回刑事公判で当時の金銭出納帳、売炭関係伝票綴を見ながら「七月二九日には大興商事では映画の券を交付しておらず又井尻又は奥さんに映画代又は入場券を渡していない」(甲第三九七号証)とするのに矛盾し、結局前記原告光子の訴外井尻正夫のアリバイ証言は虚偽であり、又右同様に券の授受を述べる訴外原田文子(甲第六九号証、第二五七号証)、同岩城定男(同第一四八号証)、同福田米吉(同二六五号証)、同村上忠吉(同第二六九号証)らの刑事公判での各証言も同様に虚偽であると主張する。

(準備書面(七)中二(一)(二))

2(1) しかしながらこの点につき検察官被告好田政一は第一審第四四回刑事公判において次のように証言している。(甲第一四六号証)「七月二九日に映画の券を貰つた者の氏名を書いた紙片は見たことがある。……映画の入場券を交付された者の氏名を書いた紙片は一枚で半紙半分位の大きさに一〇名ないし二〇名書いてあつた。一人で数枚貰つた記載もあつた。当時それが七月二九日に交付したものだということは明らかであつた。井尻の名はなかつた。井尻の家族の名もなかつた。この紙片は中田部長が大興商事の会計係に聞いて確認したという話を聞いた」と。

しかしこの紙片の所在は今や明らかでないが、前記三好吉光の証言(甲第三九七号証)に疑念を持たせるものである。

(2) 仮にこの点を除いたとしても甲第四三四号証(原告光子の28.4.23付訴外金子検調)、乙第二〇三号証(同原告の28.5.11付訴外中田司調)からは原告光子は捜査段階の当初から「七月終頃、夫、藤谷、石塚らと油谷会館で『地獄の門』を見た」と述べているところであつて、右観映は券で見たのか現金を払つて見たかの点は訴外井尻正夫自身も券で見たといつているわけでもないので右点のみをとらえて原告光子らの供述を否定しさることはできない。

特に原告光子の前記刑事公判における証言はやはり夫正夫を庇おうとする念に動かされてか所々強く言い過ぎていると思われる面(例えば甲第二五二号証に見られる「映画の時、夫正夫、藤谷、石塚が鉄道線路を歩いてくるのが見えた」などは事件後七年以上も経過して果して記憶に残るだろうか、又他の映画の場合と混同する可能性がないだろうかなど疑念をはさむ余地がある)が見受けられないわけではないけれども、その大筋においては一貫しており前記のように否定さるべきではない。

(3) 又甲第六九号証、第二五七号証、第二六五号証、第二六九号証からは訴外原田文子、同福田米吉、同村上忠吉が第一審、第二審刑事公判又は公判準備期日で原告光子と同様に七月二九日訴外大興商事の事務所で映画の券を出していた旨述べているけれども訴外福田、同村上の第二審での供述は事件後既に七年有余を経過した証言でもあり、果して現金で見たか或は券で見たか又他の場合との混同はないかなどに確実性を求めるのも無理と思われ、又訴外原田文子の第一審での証言は原告光子と同じ第二一回公判期日におけるものであり、或は同原告からそう云われて券の交付のあつたものと思い込むこともありうることであつて、右各証言も前同様に券の交付の有無のみをもつて否定し去ることはできず、又甲第一四八号証に見られる訴外岩城定男の証言も原告光子に券の交付されるのまで見たといつているものではないので前記訴外三好、被告好田の供述とは抵触しない。

(四)(1)  なお甲第四七五号証(訴外藤谷一久の被告金田検調)、同第四六一号証(同訴外人の証明)では訴外藤谷一久は「前日(七月二九日)中村誠が休んで私と一緒に働きに出た日と思いますから同月三〇日と記憶する。朝一番の上芦別発午前六時頃発の汽車に乗るため中村誠と一諸に家に出て駅につくと井尻正夫がいた。それで私は井尻に『どうしたんだ』と聞くと同人は『芦別で飲んだ遅くなつたから駅長をやろうとしたが上芦別へ歩いて来た』といつていた。駅長をするとは駅に泊る事で又上芦別には井尻の妻の実家があるので芦別から歩いて来てそこに泊つたものと私は思つた。それから私らは貨車の中へ一同乗つた。同車には岩城雪春、定男、米森らもいたように思う」と述べ、訴外井尻が七月二九日上芦別に下がり翌三〇日油谷に上がつた旨供述している。同様の供述は前記第三二三1(4)で記述したように訴外中村誠の供述にも見られ又甲第四二九号証(訴外岩城雪春の訴外金子検調)、同第四三三号証(訴外岩城定男の訴外金子検調)、同第四三六号証(訴外米森順治の被告三沢検調)にも見られる。

(2)  訴外藤谷一久が前記のとおり七月二九日は油谷会館で映画を見、そのあと井尻飯場に泊り上芦別の実家に帰らなかつたとすれば少なくとも翌七月三〇日の朝訴外井尻と汽車でいつしよになつたとの右供述は否定されなければならないが、仮にこの点を別にするも甲第三二号証によれば訴外藤谷は第一審第五回刑事公判で「上芦別から大興(商事)へ通う時汽車の中で正夫に一〜二回会つたが七月のことか八月のことかわからない。……岩城雪春といつしよに来た記憶がする。その時岩城定男のほか中村誠、米森にも会つた。正夫は縦縞の背広を着て黒いズボンをはき、赤い短革靴をはいていたように思うが靴は地下足袋だつたかも知れない。……車両は……大分混んでいたので正夫は現場衣を着ていなかつたので誰かがスツコを敷いて床の上に腰を下ろし……油谷迄トンネルを通る。車中に煤煙が入るので私らは手拭で口を押えた。井尻は手拭を持つていないのでハンカチで口を押えた。正夫とは話した記憶はない。正夫が上芦へ来たことも知らなかつた。私は正夫は賃金交渉に札幌へ行つた帰りだと思い不審にも思わなかつた。」と述べている。背広姿であることは甲第四三三号証(訴外岩城定男の訴外金子検調)、前記訴外中村誠の供述にも出ており、又ハンカチで口を押えたのは右訴外中村の供述にも見られるところであり、その服装自体からも鉄道爆破の帰りとは思われないし、やはり札幌への賃金交渉に出た帰りと見るのが妥当である。(訴外井尻が鉄道爆破実行後訴外岩城辰男方或はその他の場所で着替えたなどと推測する何の証拠資料もない)

(五)  以上の各点から見るに訴外井尻が同二七年七月二九日夜油谷会館で映画を見たとするアリバイが成立すると見るのが妥当と思われるけれども仮に一歩退いたとしても有力な反証の存在であつてこれを安易に措信しえない弁解と排斥しうるものではない。特に前記(二)1で記述したように同二八年六月二一日から同年八月二一日にかけての訴外藤谷のこの点についての供述の変更は更に前記第三、〔四〕、三、(二)及び同五で記述したように同訴外人に対する捜査官の取調べ状況からすれば明らかに捜査官が訴外藤谷に対し訴外井尻のアリバイの供述を崩そうと意図したものとみざるをえない。

二 地主照の取調べ及び供述について

一原告地主の逮捕、勾留及び取調べ

1 原告地主は訴外井尻と同様に昭和二八年三月二九日火薬類取締法違反(同罪についての公訴事実は前記訴外井尻と同様)で逮捕、勾留され、同年四月一八日右事実について起訴されて更に引き続き勾留され、同年九月六日に訴外井尻と同様に発破器窃盗で追起訴され、そして同年九月一七日訴外井尻と同様に本件芦別鉄道爆破事件の被告人として電汽車往来危険罪及び爆発物取締罰則違反として追起訴され引続き身柄を勾留されたとの事実は前記第一、一で記述したとおり当事者間に争いがない。

2 甲第五三三号証ないし第五三八号証、乙第一六二号ないし第一六六号証によれば右期間原告地主につき検察官調書四通、司法警察員調書七通が作成されていることが認められ、なお原告地主の取調べに当つたのは司法警察員被告田畠義盛、同訴外柴田某、同訴佐藤千代政、検察官被告三沢三次郎、同金田泉、同好田政一であつたことも当事者間に争いがない。

二原告地主の取調べ、供述について当事者間に争いのない事実

1 原告地主の同二八年四月六日付(司法警察員訴外佐藤)供述調書には「同二七年七月三、四日頃芦別町役場から生活扶助料の前借りとして一、二〜三〇〇円借り、これを旅費にして七月六日芦別発一三時過ぎの列車で子供と二人で出発、その日は名寄町二条九丁目辺りの旅館に一泊、その時丁度相摸の一行も同宿していた。その翌七日紋別行き一番列車で雄武へ行つた。その列車には相摸の一行も乗つていた。雄武に着いたのは雨上がりだつたのでトラックの便がなく歩いて中雄武へ行つた。その日は中雄武小学校の運動会のようだつた。中雄武で丁度上幌内へ行くトラックがあつたので乗つて上幌内へ行つた。着いたのはその日の夕方だつた。豊島というのは妻の姉の夫だ。」との旨の供述記載のあること。

2(1) 検察官被告好田は同二八年五月頃原告地主の取調べに当り共産党内部のこと、同原告の党活動について取調べをしたこと。

(2) 司法警察員訴外佐藤千代政は原告地主を自宅に連れて行き、しるこを食べさせ又同原告にウイスキーを飲ませたこと。

の各事実は当事者間に争いがない。

三原告地主の供述内容

1 前掲原告地主の捜査段階での供述調書によると同原告が芦別事件に関連して捜査官に対してなした供述の要旨はつぎのようである。芦別事件は事件後二、三日して芦別駅で行商から聞いた。又その頃新聞でも見た。同二七年六月中に井尻のところへ三〜四回訪ねた。遊びに行つたり赤旗を届けたりした。井尻のところで大須田、野田といつしよになつつたことはない。六月末から七月初頃平岸の炭素工場の解体の話を西芦別の阿部兼三郎から聞いた。七月五日頃から雄武へ行き同月一五日頃帰つた。七月二〇日頃は阿部のところにいた。七月末頃上芦別の新井のところへも行つた。この頃小樽へ行つたことはよく覚えていない。八月お盆過ぎから本腰を入れて大興商事の賃金不払の問題に介入した。……七月中井尻から頼まれて上芦別へ何か持つて行つたという覚はなく、火薬発破器、母線を持歩いたことはない。井尻に米を二升貰つたことはある。藤谷一久は同人の弟が私方に同居していたこともあつて知つているが、石塚守男はよくわからない。中村誠もわからない。私は出歩く時は子供を連れて歩いた。」というにある。

2 甲第一三四号証、第二一〇号証、第三五七号証によれば原告地主は第一、二審刑事公判においても「井尻から発破器、母線、ダイナマイト、雷管、ハンドル等を貰つたことはなく、当時見たこともなく又井尻にそのことを話したこともない」と全面的に事件を否認し、右捜査段階におけると同様の供述をなしている。

四原告地主に対する取調べ状況

本件口頭弁論期日における原告地主のの尋問結果によると、同原告は「同二八年三月二九日芦別事件で逮捕され、札幌地区警察署に連行された。取調べは田畠、柴田警部と佐藤千代政巡査部長に受けた。一日何回も芝居の台詞みたいにやられるものだから大体事件の筋はわかつてしまつた。柴田警部は共産党のことを聞いた。中央警察署の風呂がこわれたので佐藤巡査部長が私を房外の銭湯へ連れて行つた。その帰り巡査部長のところへ寄つた。又同巡査部長と大通りへ行つて飲んだことがある。調べられても調書を作らないことが多かつた。五月一〇日大通り拘置所へ、同月下旬に滝川地区警察署に移され好田検事に調べられた。そのあと滝川の拘置所へ行き、半月か三週間程して美唄の警察に移されここで三〜四回調べられた。この時石塚、藤谷、中村の話が出ていた。ここから滝川地区警察に移された。同三一年五月九日井尻といつしよに釈放された。その間同二九年一月五日頃二〜三日釈放されたが抗告で取消された。一一二三日間勾留された。」旨述べている。

第五芦別事件の捜査、起訴及び刑事公判追行の違法性

一  被告国を除くその余の被告らの捜査、起訴、刑事公判追行において果した役割及びその意識

(一)  被告高木一

1 被告高木が札幌地方検察庁次席検事として芦別事件の捜査の総指摘に当つたこと、訴外井尻正夫、同石塚守男を直接調べたことは前記第一、四1で記述したとおりである。

2 被告高木は本件証拠期日における尋問結果で大要次のように述べている。

(1) 「芦別事件については警察及び札幌地方検察庁岩見沢支部から連絡を受けその一〜二日後に事件現場及び芦別町警察署に行つた。検察庁としては当初岩見沢支部の池田検事、そのあと金田検事、滝川区検察庁の好田、志村両副検事が関連した。昭和二七年中は捜査は警察が主体でこちらは相談役であつた。現場遺留品も発見後二〜三日して見た。爆破現場を見に行つた時芦別町警察署で捜査会議があり出席し、捜査の進め方等の話もあつた。ダイナマイトを入手した者を探すということだつた。遺留品を見た日も捜査会議があつた。この日には雷管に「5」という数字があり次々に抜いて見せてくれた。又この日雷管は油谷のものであることがわかり油谷炭礦があやしいというところまで来ていた。この時共産党の話が出ていた。雷管を最初に見た時新しくもなかつたが、くずれているという程のこともなくちやんと形も整つていた。錆とか緑青のようなものは記憶はない。それからは雷管、発破器が捜査の中心になつた。石塚、藤谷が自白するようになつて札幌地方検察庁の本庁でも応援し指揮した。」

(2) 「魚とりの事件から石塚がダイナマイトを盗んで井尻にやつたと自白し、藤谷も同様の自白をした。私は同二八年五月井尻と石塚を調べた。金田検事が見てくれといつたので調べた。自発的にやつたのではない。石塚は炭素工場の件で井尻に頼まれてダイナマイトを持つて来てやつたら井尻はそれを地主にやつて鉄道爆破に使つた。七夕の日に井尻が自分も現地へ行つたと聞いたと述べた。石塚を二日程調べた。色々と記憶力証言能力を検査したがどの点でも必配はないということであつた。石塚のいつた井尻、地主以外の共犯者は継続捜査にしたが、結局はつきりしなかつた。井尻、地主だけは確かだということになつた。野田のアリバイは全くなかつた。野田が『山彦学校』という映画を見ていたというのは全く知らない。斎藤正夫のアリバイははつきりしていた。山内、大須田は黒とも白ともいえなかつた」

(3) 「井尻も二回調べたが捜査事実を認めなかつた。井尻は二重の殻をかぶつている。一つは党としての立場、一つは自己防衛心だ。その殻がなくならない限り本当の事実は云えないだろうと思つていた。確信犯には思想中の犯罪と結びつくものを変えさせなければ本当のことを云わない。井尻は私の面前で脱党届を書いた。井尻に対しては脱党を考えろといつたが、すすめはしない。」

(4) 発破器について金田検事から、あの発破器は猿山が油谷で盗んで亜東組へ売つたが、どういう経路で大興商事に戻つたかわからないと聞いた。又大興商事で二七年六、七月頃発破器がなくなつたという話も聞いた。しかし発破器は大興商事にあつたことは間違いないということになつた。北崎、浜谷、中村がナンバープレートのとれた発破器を見たといつていた。福士の証言は信用できないということになつた。福士がなくしたのはもつと別の時期だと思う。具体的にいつ頃かわからない。大興商事の他の発破器には余り関心がなかつた。ナンバープレートのとれたものだけ捜査の中心であつた。大興商事で落盤で埋つたのが一台、原因不明でなくなつたのが一台計二台紛失したと聞いていた。」

(5) 「起訴の時は私も相談にあづかつた。同二八年八月中頃胃潰瘍で入院し、同年九月一日から札幌検察庁勤務になつていた。井尻や地主が既に開連事件で起訴されていたということは知らなかつた。起訴の時問題になつたのは一つは発破器、一つは石塚証言だ。捜査としては発破器の点について不満だつたがあとは完全だと思つた。発破器一つがつながらなくてもこの事件は起訴せざるをえないだろうと思う。」

(6) 「福士のなくした発破器が後で出て来たというのに起訴後まで知らなかつた。起訴後高検の寺沢検事から聞いた。この時私はびつくりした。送致して検察庁の倉庫にあつた。関係がないというので現物も見ないでポント倉庫に入れていた。三沢検事も発破器が出て来たことを知つていたかどうか、報告はなかつた。」

(7) 「雷管とダイナマイトを業者に廃棄を頼んだことは間違いない。しかし雷管は埋めなかつた。雷管が短くなつていることについて芦原警察官は僕に謝りに来た。裁判になつて証拠品の保管が悪かつたので裁判所で大へん叱られたと云つていた。雷管を国警が持つて行つて研修の材料に使つたりなんかしたこともある。雷管の同一性の証明がはつきりしなくなつたといつていた。芦原警察官に雷管をいたずらした者がいるのではないかといつたら、いないといつていた。」

(3) 「芦別事件を今から見て起訴しないで済んだという材料は出て来なかつた。しかし発破器などもう少し捜査をすすめておけば裁判所を説得できた。雷管もちやんとしておけばよかつたと思う。井尻、地主以外に主要な容疑者の線は全くなかつた。又当然起訴猶予か犯罪になるかどうかわからないようなもので事件を立てて引つぱつて来て調べるというのはよくない」と。

3 被告高木の右尋問結果のうち三坑で発見された紛失発破器一五三五九号に関する供述部分(右(6))は次の検察官被告三沢三次郎の「右発破器は起訴の際高木検事をも含めた全捜査検察官で検討した結果芦別事件に関係がないということで一致した。」旨述べている尋問結果部分((二)2(3))と著しく喰違い、捜査の常識から云つても右被告高木の尋問結果部分は措信しえない。

4 その他の証拠物、訴外石塚、同井尻などの供述については先に検討したとおりである。なお被告高木の訴外井尻の取調べ状況については前記第四〔一〕二34(1)(2)で記述したとおりであるが、その他にも甲第五〇四号証、第五〇五号証では訴外井尻に共産党の脱党を勧告し、芦別事件についての自供を求めていることが認められる。

(二)  被告三沢三次郎

1 被告三沢が札幌地方検察庁検事として芦別事件の捜査の責任者であり、第一審刑事公判に立会つたことは前記第一、四、2で記述したとおり当事者間に争いがない。

2 被告三沢は本件口頭弁論期日における尋問結果では大要次のように述べている。

(1) 「昭和二八年四月七日前橋地方検察庁から札幌地方検察庁に着任、同三〇年七月二〇日に甲府地方検察庁に転勤した。札幌では着任後転任するまで芦別事件の捜査、刑事公判に従事した。札幌地検では公安労働係で芦別事件の主任検察官をした。着任して捜査に当つた当時金田検事が石塚、藤谷らを、好田副検事が井尻を金子副検事は中村を調べた。着任直後の四月九日には北島芦別市警察署長、国警の田畠警部から事件の報告を聞いた。捜査は遺留品を中心に行なつた。発破器、ハンドル、母線、ダイナマイト、雷管、四寸釘が油谷炭礦のものであることがわかつた。捜査過程は高木次席検事が指揮指導し、検事正も指揮に当つた。」

(2) 「魚とりのため火薬と雷管を石塚、藤谷、中村らが持出したことがわかり、石塚、藤谷の供述から井尻、地主の嫌疑が出て来た。石塚供述を藤谷供述が裏付けた。高木検事が石塚の供述が真実かどうかを確かめるために取調べをしそれで大丈夫という話であつた。母線は中村供述によつて井尻にやつたことがはつきりした」

(3) 「中村、北崎の発破器の特徴についての供述から発破器が大興商事にあつたという心証をえた。二七年二月から同商事の作業現場とか事務所にあつて同年六月なくなつた。中村は最初一五三五九号発破器に似た供述をしていたが後に証第二一号に似た供述をした。猿山洋一が二六年一一月頃八七五〇号発破器を盗み出し、そして高橋に渡つたが、それから亜東組に渡つたかどうかはつきりしなかつた。右発破器が大興商事に来るまでの経路もどうもはつきりしなかつたが北崎供述があるし大丈夫と思つた。井尻が六・三坑の発破器を二七年六月中旬盗んだことは間違いない。失くなつたという事実は福士、浜谷の供述によつて認定した。福士の供述は失くなつた時期につき、浜谷の供述は発破器の特徴について採用した。福士が発破器は一五三五九号だといつていたのは信用しなかつた。大野所長も失くなつた発破器は一五三五九号だといつていた。一五三五九号発破器が二八年二〜三月頃出て来たということは知つている。証第二一号発破器は大興商事が二七年二月油谷鉱業所から借りたものだ。だから猿山が盗んだ発破器は一度油谷鉱業所へ戻つて来たことになる。でも戻つたという証拠はなく、同鉱業所から大興商事に貸したという証拠もない。一五三五九号はいつなくなつたか知らない。証第二一号発破器と大体同じ時期だ。従つて二七年六月二〇日頃六坑、三坑で二台なくなつた。一五三五九号は起訴の時送られて来たのでそのままにしておいた。一五三五九号は芦別事件に関係がないということは検察官は一致していた。高木検事も充分知つていた筈だ。」

(4) 「ハンドルは原田鐘悦の供述から井尻に渡され、又ダイナマイトの残存箱も油谷鉱業所の木箱と一致した。四月九日雷管を見た時、管体はピカピカしたものでなくくすんで鈍い色をして算用数字「5」がやつと見える程度になつていた。これは油谷鉱業所の西浦正博のもので二・三坑坑務所から盗まれたということがわかつた。爆破に使用した火薬は石塚の経路と徳田の経路があつた。両方のうち一部をもつて行つたと思う。残りはどうなつたかわからない。石塚は三坑現場からダイナマイトを運んだことで火薬取締法違反で起訴され、自白し、有罪となつて確定している事実があるので間違いないと思う。」

(5) 「石塚供述では地主、井尻のほか斎藤正夫、大須田卓爾、山内繁雄、野田こと衣川が実行行為に関与した。でも地主、井尻以外は確証がなく不起訴にした。山内、大須田、斎藤にはアリバイがあつた。地主、井尻には物証があつたしアリバイがなかつた。」

(6) 「起訴する時検事間で協議した。高木検事は八月末から病気で入院、九月に高等検察庁に移つていたが起訴決済には名実共に参加した。起訴は塩田検事正の決済を受けた。起訴については異論、疑問がなかつた。」

(7) 「七月一二日、一三日石塚の供述から井尻が飯場にいたことを認めた。この関係で高橋金夫は知らないし、又手帳も知らない。検討した記憶もない。送られて来た証拠品を私は全部検討しなかつた。竹田源次郎を調べた。手帳を出して石塚の出たのは七月一〇日頃だといつた。しかし手帳には価値はないと思つた。

一五三五九号発破器、猿山関係の証拠、高橋金夫の手帳、竹田源次郎の手帳、大興商事の操業票は重要なものではないと思つたので刑事公判で提出するつもりはなかつた。」

(3) 「雷管を最初見た時五本とも同じ長さだつた。裁判所に出した時うち四本は短くなつていた。雷管は腐蝕によつて短くなつた。」

(9) 「芦別事件についてもつと立証方法を考えればよかつたと思う」と。

3 なお他に甲第一号証の一、第二号証ないし第一五三号証によれば被告三沢は訴外井尻、原告地主に対する芦別事件の主たる訴因である電汽車往来危険、爆発物取締罰則違反被告事件について自ら起訴状を作成し、又右公訴維持のため被告金田、訴外金子誠らとともに第一審第一回公判期日から第四六回公判期日迄立ち合い、その間起訴状朗読、冒頭陳述、証拠申請、証拠物提出、証人尋問などその他の訴訟行為をなしたことが認められる。

4 被告三沢の捜査段階での参考人、被告人の取調べ状況については先に第三、第四で記述したとおりである。

(三)  被告金田泉

1 被告金田泉は札幌地方検察庁検事であつて、芦別事件の捜査の責任者であり、第一審刑事公判に昭和二九年三月まで立会したことは前記第一、四、3で記述したとおり当事者間に争いがない。

2 甲第一号証の二、三、第二号証ないし第五六号証、第四三九号証ないし第四五〇号証、第四五五号証、第四五六号証、第四六六号証ないし第四八三号証、第四九二号証、第五三八号証、乙第一二号証、第一三号証、第一八号証、第三四号証、第四四号証、第四七号証、第五八号証、第六四号証ないし第六七号証、第七二号証、第七八号証、第八三号証、第八四号証、第九〇号証、第一〇〇号証、第一〇五号証、第一〇六号証、第一一〇号証、第一一三号証、第一一四号証、第一一七号証、第一三二号証のほか前記被告高木、同三沢の各尋問結果からは、被告金田は芦別事件の捜査に関し多数の参考人の取調べ、就中右事件の主柱ともいうべき参考人訴外石塚守男、同藤谷一久の取調べおよびその供述録取に従事し、又訴外井尻原告地主の起訴決定に際しては被告高木、同三沢らと共に参与し、自らも訴外井尻、原告地主に対する同二八年四月一八日付火薬類取締法違反被告事件、同年九月六日付発破器窃盗被告事件についての起訴状を作成して公訴を提起し、刑事公判の立会に際しては被告三沢、訴外金子誠二とともに公訴維持のため冒頭陳述、証拠申請、証拠物提出、証人申請等その他の訴訟行為をなしたことが認められる。

なお被告金田の捜査段階での訴外石塚、同藤谷に対する取調べ状況については前記第三、〔三〕〔四〕で記述したとおりである。

(四)  被告好田政一

1 被告好田政一は滝川区検察庁副検事であつて芦別事件の捜査に従事したことは前記第一、四、4で記述したとおり当事者間に争いがない。

2 甲第一二五号証、第一三八号証、第一四四号証、第一四六号証、第三〇五号証、第三五三号証、第四六二号証ないし第四六五号証、第四九四号証ないし第四九六号証、第五三五号証ないし第五三七号証、第五四八号証、第五五二号証ないし第五五六号証、第五五九号証、乙第一七号証、第二〇号証、第三一号証、第三二号証、第四八号証、第五五号証、第六〇号証ないし第六二号証、第六八号証、第七一号証、第七五号証ないし第七七号証、第九五号証、第九七号証、第九八号証、第一〇四号証、第一一九号証、第一六一号証及び被告高木の尋問結果によれば、被告好田は検察官訴外志村利道とともに芦別事件発生直後頃から昭和二八年八月に岩内区検察庁に転勤するまで同事件の捜査に関与し、主として八七五〇号発破器関係で訴外猿山、同高橋鉄男らを取調べ、この間同訴外高橋を右発破器の賍物牙保で起訴し、又更に遺留品たる電気雷管の出所関係をはじめ訴外馬場武雄、同藤谷一久その他の多数の参考人、訴外井尻、原告地主両被告人の取調べをなしていることが認められる。

なお被告好田の訴外藤谷、同井尻、原告地主に対する取調べ状況は前記第三、〔四〕、第四で記述したとおりである。

(五)  被告田畠義盛

1 被告田畠義盛は国家地方警察札幌方面本部刑事部捜査一課指導係長警部で芦別事件発生直後芦別に派遣されて以後捜査に関与し、同様に関与した司法警察員訴外弘中警部補、同中原巡査部長を指導したことは前記第一、四、6で記述したとおり当事者間に争いがない。

2 甲第一七三号証、第一七五号証、第二九九号証、第三二三号証、第三三一号証、本件口頭弁論期日における被告田畠の尋問結果からは同被告が芦別事件に関して述べるところは大要次のとおりである。

(1) 「芦別事件の発生については札幌地方面本部で連絡を受け翌七月三〇日上司に云われて芦別に出かけ現場などを見分した。当時国家警察には直接の捜査権はなかつたが事件直後芦別町警察署から公安委員会を通して応援要請があつたので、そのまま芦別町警察署長の指揮下に入つた。その時国警からは弘中警部補、中原巡査部長が行つた。当時私には国警の警察官に対する指揮命令はできたが芦別町警察署員に対する指揮命令権はなかつた。その後国警からは逐次交替して結局一〇人位が行つた。その中には舘警部補、中村巡査部長(被告)、竹島、和田警察官がいた。私は芦別町警察署長の了承をえながら部下の国警警察官をまとめて行つた。」

(2) 「八月四日爆破実験をやつているところで知らせを受けて遺留品発見現場へ行つた。当日捜査会議を開いた。当初毎日のように捜査会議が行なわれていた。私はそのまま芦別にほとんど詰めていた。検察官が捜査を始めたのは遺留品が発見された後だが、同二七年中にも何度も現地に来ていた。三沢検事、金田検事とも捜査会議をやつたこともある。捜査の進行について事件の送検以前でも検察官と打合わせしていた。私自身札幌地方検察庁に出向いて打合わせしたこともある。同二八年一月捜査次席になり芦別事件の捜査に専念できなくなるので同二七年一二月一杯で芦別から引き揚げた。その後は時折芦別に行く程度で参考人の取調べ調書を見たり、捜査状況を聞いたりして専ら警察署長の相談役をした。」

(3) 「具体的捜査では私は発破器の捜査に当つた。芦別町警察署では中田部長も発破器の捜査をしていた。発破器は附近の炭坑も捜査した。現場遺留品の発破器の番号は八七五〇号だつた。これを猿山が油谷鉱業所から盗み、高橋へ渡し、高橋から先亜東組へ行つたかどうかがわからなかつた。大興商事でも発破器の盗難があつたと聞いたがこれは別の発破器だ。私が同二七年一二月末芦別を引き揚げる時後は中田巡査部長に捜査を引き継いだ。大興商事で盗まれた発破器があとで発見されたということは聞いていない。結局起訴当時本件発破器を中村誠がどこからか持つて来たということになつた。その間のつながりはなかつたが、同じ油谷炭礦内だから廻り廻つて行つたのではないかと考えた。でも検察庁も相当慎重に考えた上でやつたのだからと信用していた。八七五〇号発破器が大興商事の現場でなくなつたという盗難届はないと思う。」

(4) 「同二八年には地主を調べた。地主の身柄が札幌にあつたので取調べは札幌方面本部がやつたと思う。私が地主の取調べの当面の責任者だつたのかも知れない。地主は否認していたので調書はとらなかつた。佐藤千代政巡査部長が地主にウイスキーを飲ませたのは同三八年〜四〇年頃一寸と思う。」と

3 被告田畠の右供述中訴外大興商事で紛失した発破器が発見されたという話は聞いていないとの点は同被告は同二七年一杯で芦別を引き揚げたとはいえ、同二八年にも芦別事件の捜査に国警の指導者として関与していた状況から見て措信しえない。

(六)  被告中村繁雄

1 被告中村繁雄は国家警察札幌方面本部刑事部捜査課員巡査部長で芦別事件の捜査に従事したことは前記第一、四、8で記述したとおり当事者間に争いがない。

2 甲第一九六号証、第二〇六号証、第五二六号証ないし第五二九号証、第五三四号証、乙第一六六号証、第一六八号証、第一六九号証、第一九四号証、第一九七号証、第二三〇号証、第二六五号証、第二八四号証、第三三一号証、第三六九号証、第三七五号証、第三七六号証、第三九四号証ないし第三九九号証によると被告中村はその間訴外井尻、原告地主、訴外石塚、同藤谷その他の参考人の多数を取調べた。その取調状況は前記第三、第四で記述したとおりである。

二  捜査行為の違法性及び(被告ら被告国を除く)の認識

一 およそ警察官の職務は「個人の権利と自由を保護し、公共の安全と秩序を維持する」(警察法第一条)を目的とし、「個人の生命、身体及び財産の保護に任じ、犯罪の予防、鎮圧及び捜査、被疑者の逮捕、交通の取締その他公共の安全と秩序の維持に当る」(同法第二条第一項)ことを責務とし、その活動は「厳格に前項の責務の範囲に限られるべきものであつてその責務の遂行に当つては不偏不党且つ不公平中正を旨とし、いやしくも日本国憲法の保障する個人の権利及び自由の干渉にわたる等その権限を濫用することがあつてはならない」(同法第二条二項)ものであり、警察官としての職務を行なうすべての者は「日本国憲法及び法律を擁護し、不偏不党且つ公平中正にその職務を遂行する旨の服務の宣誓を行なう」(同法第三条)ことを要求されている。そして右趣旨は捜査活動に従事する検察官の責務についても同様であることは云うまでもないところである。そしてこの捜査活動は帰するところ「刑事事件につき公共の福祉の維持と個人の基本的人権の保障とを全うしつつ事案の真相を明らかにし、刑罰法令を適正且つ迅速に適用実現することを目的とする」(刑事訴訟法第一条)刑事手続法規各条の規定を厳格に遵守して行なわなければならないことも又多言を要しないところである。

二しかしながら、警察官、検察官の行なう捜査行為(とくに逮捕、勾留)の違法性および右の点に関する捜査官の故意過失の判断にあたつては、つぎの諸点に留意する必要がある。

すなわち、(1)被疑者の逮捕、勾留の許否については、裁判官による事前の司法審査の行なわれるのが原則である(同法第一九九条、第二〇七条、第六〇条)。したがつて、適式に発せられた令状に基づく逮捕、勾留は、原則として、その適法性が一応推定され、少くとも捜査官の故意、過失は否定されろと解するのが相当である。(2)しかしながら、裁判官の行なう司法審査は、限られた資料と時間的制約のもとに行なう一応のものなのであるから、もし、右令状の請求にあたり、捜査官が裁判官に提出した資料のほか、手持の全証拠を総合検討すれば逮捕、勾留の要件が明らかに否定されるのに、右の点を無視しあるいは看過して、右要件を肯定するような資料のみを提出し、令状を得たとき、あるいは、提出された資料のみに基づいても、明らかに逮捕、勾留の要件が否定されるのに、誤つて令状が発せられたときには、さきの適法性の推定は破られ、適式な令状に基づく逮捕、勾留といえども違法性を帯びることとなり、捜査官の故意、過失も肯定されることがある。(3)もつとも、右(2)において述べた逮捕、勾留の要件が「明らかに否定される」かどうか等の点の判断は、さらに、(イ)同法第一九九条、第六〇条等の規定する逮捕、勾留の要件が、それ自体、相当幅のある概念であり、その解釈適用をめぐつては、新刑事訴訟法施行二〇年を経た今日でも実務の適用が明確に統一されているとはいえないこと、(ロ)本件で問題とされている一連の逮捕、勾留は、いずれも新法施行後日の浅い昭和二八年初頭から行なわれたものであつて、逮捕、勾留の許容される限界等に関する指導的な学説、判例が未だ実務に定着していないころのものであつたこと(たとえば、今日未だにその適否が鋭く争われている別件逮捕の可否等についてはもとよりのこと、逮捕、勾留の必要性につき裁判官の判断権があるかどうかというような、今日ではすでに規則上一部明文化され、実務上も異説を見ない問題についてすら、当時においては未だ顕著な学説の対立があつたことを想起すべきである。)等の諸点にかんがみ、慎重にこれを行なうべきである。

三そこで、以下、右の諸点を念頭に置いて、本件芦別事件の捜査活動の違法性および捜査官の故意過失について検討する。

(一)  昭和二七年七月二九日の夜鉄道爆破事件の発生及び同年八月四日よもぎの草むらから遺留品が発見され、以後本件芦別事件の捜査がその遺留品中の発破器、電気雷管、ダイナマイト、緑色被覆電線などの出所を追及する方法で展開されて行つたこと、そして芦別町周辺に所在するいくつかの炭礦や発電所工事現場の作業組等に向けて捜査が続けられて行くうち、右雷管の管体に刻記されていた番号「5」なる数字が芦別町(後の芦別市)字旭所在の訴外油谷鉱業所で使用しているものであることがわかり、継いで発破器(証第二一号)も右同訴外鉱業所の所有であること、又ダイナマイト(新白梅印)もその容紙器の番号、日付記載から同訴外鉱業所から出たものであり、又緑色被覆電線も同訴外鉱業所で発破母線として使用しているものであることがいずれも判明した右訴外油谷鉱業所に著るしく疑惑が向けられ捜査が次第に絞られて行つたが未だ解決の糸口の見つからないまま同二七年を終えた(以上の事実は本件口頭弁論期日及び証拠調期日における証人藤春三、同大久保寛二郎、同山本末二郎、同高松一美、同中田正、同芦原吉徳、被告田畠義盛、同三沢三次郎、同高木一の各尋問結果)この間の経緯については特に捜査行為自体を違法と目すべきものはない。

もつとも乙第二三九号証、第二四一号証(いずれも訴外阿部兼三郎の司調)、同第二四九号証(訴外山内繁雄の司調)第二五九号証(訴外大須田卓爾の司調)、同第三九六号証(訴外石塚の司調)によれば芦別事件直後既に芦別附近において右鉄道爆破事件は共産党の仕業でないかとの噂も流れ、捜査官もかような状況を考慮してか芦別附近の共産党員の動向を捜査したことのあつたことも認めうるが、当時の社会情勢として昭和二四年に松川列車填覆事件、三鷹電車填覆事件などが相い続き、いずれも共産党員にその容疑をかけられていた時勢であつたとすれば、右の様な捜査活動を即不法と非難するのも当らない。

(二)  訴外中村誠、同石塚守男、同藤谷一久の逮捕、勾留及び取調べについて

1 越えて同二八年に入り、同年二月一八日訴外藤谷一久が前記第三、一、(一)、1で記述したように、同二七年七月四日六坑捲揚機室からダイナマイト二〇本入一箱を窃取したとの事実で逮捕されてから芦別事件の捜査の進展方向はかなり変つて来た。右訴外藤谷の逮捕は恐らく当時同訴外人が六坑捲揚機室からダイナマイトを運び出すのを見たという熊谷組の係員訴外馬場武雄の供述にもとづくものと推測される(甲第三六〇号証)。しかし、本件口頭弁論に提出された訴外大興商事の従業員の各供述調書からは当時同訴外商事では正規の方法ではなかつたが坑内作業に使用するダイナマイト等を便宜右捲揚機室の保管箱に入れて保管し、六坑、三坑の現場作業員は適宜取出しては作業に使用していたことが認められ、かつ被疑事実のダイナマイトの数量からみても、通常作業に使用する以上の量ではないのであるから、仮に捜査官において訴外藤谷にダイナマイト窃盗の疑惑が生じたとしても前記のように訴外商事の関係者を取調べるなどの方法によつて右容疑の解明は容易になしえたことと思われる。それにもかかわらずあえて訴外藤谷の身柄の逮捕に踏切つた捜査官の前記措置はかなり疑問であつたと評せざるをえない。しかも訴外藤谷は右事実によつて延長期間を含めて二〇日間の勾留を受けている。

(2) 同二八年三月九日訴外石塚守男が、又同月一九日訴外中村誠が前記第三、〔二〕、一、(一)、1及び、同〔三〕一、(一)、1で記述したように、訴外中村、同石塚、同藤谷らが共謀して同二七年六月二八日訴外大興商事からダイナマイト三本、電気雷管二本を窃取したという容疑で逮捕された。右窃盗の事実は右第三、〔二〕一、(一)、2及び同、〔三〕一、(一)、2でも記述したように右同訴外人らが翌六月二九日頃に野花発電所の貯水池で魚とりした際に使用したダイナマイト及び雷管である。本件口頭弁論に提出された各証拠からは捜査官が何時から訴外石塚、同中村らの右魚とりの話を聞込んだかは明らかではないが、乙第一六七号証(訴外中村の27.9.9付訴外芦原司調)では芦別事件後一ケ月余りを経た同二七年九月九日司法警察員訴外芦原は既に右魚とりの件で訴外中村を取調べていることが認められる。しかも右供述調書では訴外中村は魚とりの事実を否認はしているものの、その後の訴外中村の捜査官に対する供述調書及び訴外石塚の同様の供述調書でも同訴外人らは右魚とりの事実を素直に認めている。従つて捜査官がこの同二八年三月の段階で右事実について訴外中村や同石塚について逮捕までして強制捜査をしなければならなかつた必要性が存したかどうかは疑わしい。しかもかような逮捕の必要性の疑問となるような比較的軽微な犯罪行為によつて右訴外両名はいずれも延長を含めて二〇日間勾留され、更に引き続き前記したように今度はダイナマイトによる魚とりの事実自体を火薬類取締法違反として訴外石塚は同年三月三〇日に、又訴外中村は同年四月八日に再逮捕され、いずれも再び二〇日間の勾留を受けた。

(3) 訴外藤谷は前記第三、〔四〕、一、(一)、2、3で記述したように同年三月一九日右野花南での魚とりの事実で再逮捕されて再び二〇日間勾留され、更に右に使用したダイナマイト三本雷管二本の窃取で同年一〇月再々逮捕され又二〇日間の勾留を受けている。同訴外人についても右訴外中村、同石塚の場合と同様の疑問を生ずる。

2 以上のようにして開始された訴外石塚、同中村、同藤谷に対する取調べは右各逮捕、勾留の被疑事実についてはほとんどなされず、もつぱら芦別鉄道爆破事件の取調べに集中されたことは前記第三、〔三〕ないし〔四〕で記述したとおりである。そしてその後も右同所で記述したとおり同訴外人らに対する逮捕、勾留は反覆され、訴外石塚については三回の逮捕、勾留を経て同年八月二六日迄計一六九日間、訴外中村については四回の逮捕、勾留を経て同年一〇月五日迄計二〇一日間、訴外藤谷については五回の逮捕、勾留を経て同年八月二二日迄の計一七九日間それぞれ身柄拘禁を受けて芦別事件について取調べが続けられ、その間に後日訴外井尻、原告地主が右芦別事件の容疑者として逮捕、勾留され、更に犯人として起訴される際の資料とされた数々の参考人供述調書が作成されて行つたことは前に詳記したとおりである。

3 このように、訴外石塚、同中村、同藤谷の逮捕、勾留はその嫌疑および必要性の存在自体かなり疑問であつたといわなければならないが、その身柄の拘束が、本来の被疑事実に対する捜査の必要上からではなく、別件たる芦別鉄道爆破事件についての供述を求めるために行なわれた疑いが濃厚である点においても、その適法性に疑問を生ずる。なぜなら、現行刑事訴訟法は、被疑者といえども、その供述を得る目的だけのために、その身柄を拘束することを許容していないとみられること、前述したとおりであり、ことに、被疑者を、本来の被疑事実の捜査の必要上からではなく、もつぱら別件についての供述を得る目的のもとに逮捕、勾留することは、許容していないと考えられるからである。このように見てくると、訴外石塚ら三名の逮捕、勾留は、現在の時点において、事後的客観的に観察すれば、その適法性ははなはだ疑問であるといわなければならないが、前記二において述べた意味においては、未だこれを違法と断ずるには足りず、かろうじてその適法性を肯定することができる。

(三)  訴外井尻、原告地主の逮捕、勾留及び取調べについて

1 訴外石塚、同藤谷の逮捕後、同訴外人らの供述にもとづき同二八年三月二九日訴外井尻、原告地主が逮捕されたことは当事者間に争いがない。

2 訴外井尻および原告地主の逮捕、勾留の資料とされた訴外石塚ら三名の供述は、これを仔細に検討すれば、前記のように種々の矛盾、不合理を包含し、とうてい措信し難いものであつたけれども、そのことからただちに、訴外井尻らの逮捕、勾留が違法となるものでないことは、前記二において述べたところから明らかであろう。しかしながら、被疑者の身柄拘束が、その当初の段階において違法であつたとしても、その後その嫌疑を否定する重大な証拠が発見され、これをも加味して検討すれば、とうてい勾留の理由ありと見られなくなつたような場合にあえて身柄の拘束を継続すれば、右時点以降該身柄拘束は違法となるというべきである。本件において、訴外井尻および原告地主は、昭和二八年四月一八日、ダイナマイト、雷管を不正に所持したとの、火薬類取締法違反のかどで公訴を提起され、以後は、被告人として勾留されていたものであるから、形式的に見る限り、同罪による勾留がその後違法となることはないように思われるけれども、右火薬類等の不法所持は、実質上、本件鉄道爆破事件の予備罪としての性格を有するものであつて、同罪による起訴後の勾留は、もつぱらその後の鉄道爆破事件の捜査に利用される関係にあつたその実質に着目すれば、右火薬類不法所持罪による起訴後の勾留も、後記のとおり、証第一二九号発破器が発見領置され、鉄道爆破事件に対する両名の嫌疑が消滅するとともに、法律上許容されないものとなつたというべきである。証第一二九号発破器が捜査官により領置された時期は、必ずしもこれを明確に確定することができないが、甲第一八四号証によつても、昭和二八年四、五月ころより後であるとは考えられず、捜査官が右発破器の証拠価値を検討するためのある程度の時間的余裕を見込んでも、おそくも、同年六月一日以降における右両名の身柄の拘束は、右に述べた意味において、捜査官の故意過失を伴なう違法な拘束となつたというのほかない。

(四)  なお、この間、押収された現場遺留品たる雷管にも、前記第二〔二〕で記述したような作為が加えられた。捜査官は、発見押収した証拠物の保管には、万全の意を用い、万一にも、これが腐朽して証拠としての使用に耐えなくなるような事態に立ち至らないようにすべきであるが、かりに右のような事態を現出してしまつた場合においても、新たに、原証拠物に似せて新たなものを作成し、これを真実現場に遺留されていたかのように装つて証拠として提出するようなことが許されないことは、いまさら論をまたないところである。本件における捜査官の所為は、自己らの保管上の手ちがいを糊塗するため、安易に右のような作為に走つたものというほかなく、きわめて遺憾なことといわなければならない。

四証第一二九号発破器と捜査官の故意の有無

1  証第一二九号発破器即ち一五三五九号発破器については前記第二、〔一〕で記述したとおりであり、同発破器は既に同二八年三月以前に三坑堅入において発見されその後、おそくとも同年四、五月ころまでに芦別市警察署に押収領置されていたことも又前記したとおりである。この発破器の発見により訴外大興商事の六坑、三坑で紛失した発破器は皆無となり、訴外石塚がいかにダイナマイトを訴外井尻の許に運んだと述べ、訴外中村がいかに発破器、発破母線を訴外井尻に渡したと語り、訴外石塚、同藤谷がいかにもつともらしい七夕の夕方の鉄道爆破の物語りを告げ、そしてかついかに捜査官がそれらの供述を真実と信じ込んだとしても訴外井尻、原告地主に関する芦別事件の嫌疑には重大な疑問を生じたことになる。捜査官は遅くともこのあたりの時点であらためて当時集められた各証拠についての検討をし直すべきであつたといわなければならず、又実際にも検討しなかつたとは考えられない。

2  このように、証第一二九号発破器の発見は、訴外井尻、原告地主の芦別事件への加担の有無を決するうえで、従前の捜査官の構想を一挙に覆すに足りるほど決定的に重要な意味を有することであつた。右発破器の証拠価値を客観的、合理的に評価する限り、これが事件と無関係であるなどということがいえるはずのものではなく、少くとも、従前発破器について供述をしている訴外福士、同浜谷、同北崎ら関係者に対し、二台の発破器の双方を示してその供述を求める程度のことは、捜査の常識上当然なすべきことであろう。しかるに、捜査官は、何ら右のような所為に出ることなく、依然として、昭和二七年六月ころ大興商事から紛失した発破器が証第二二号発破器であるとの想定のもとに、前記第三〔二〕で詳述したとおり、訴外中村をして発破器持出しの供述を続けさせ(ちなみに、訴外中村のこの点についての捜査官に対する供述は、同二八年五月二四日以降である。)、その他の訴外福士、同浜谷、同北崎らにも、これを裏付ける供述を求め、右紛失を前提として、前記第三、〔三〕、〔四〕で記述したように、訴外石塚、同藤谷にも、爆破事件についての供述を求め続けた。

3  かかる捜査官の態度は、さきにも述べたとおり、証第一二九号発破器の出現により従前の自己らの構想が一挙に崩れ去るのをおそれるのあまり、ことさらに右発破器の存在を秘匿しようとしたのではないかと疑われてもやむをえないものであり、万一、被告三沢が弁疏するとおり真実その証拠価値を誤つて過評少価していたものとしても、少くとも、重大な過失を免れない。したがつて、捜査官が、右発破器の存在を知り、その証拠価値を客観的に検討しうる状態に至つた時点(右時点が、おそくも昭和二八年六月一日より後でないことは、前記したとおりである。)以後における一連の強制捜査(前記のとおり、訴外井尻、原告地主両名の起訴後の勾留を含む。)は、右に述べた意味において、故意または少くとも重大な過失を伴なう違法行為であつたといわなければならない。

五捜査官の意思の疎通、協力関係

かように芦別事件の捜査は数々の違法を伴つて追行された。そして右捜査に関与した被告高木、同三沢、同金田、同好田をはじめとするその他訴外金子誠二、同志村利造、同小関正平らの各検察官及び被告田畠、同中村をはじめとするその他の訴外北島政治、同芦原吉徳、同中田正、同藤田良美、同高松一美らの各警察官は、前記した本件口頭弁論期日及び証拠調べ期日における被告高木、同三沢、同田畠の各尋問結果のほか更に同弁論期日における証人工藤春三、同山本末次郎、同高松一美、同中田正、同芦原吉徳の各尋問結果にも見られるように、幾回となく行なわれた捜査会議、上司から部下に対する指揮命令、下部から上部に対する報告、上申或は警察官相互の検察官相互の、又警察官、検察官相互の連絡、捜査打合わせ、協議相談等を通じてお互いに意思相通じ相互に協力共同しながら一つの統一ある組織体として前記捜査の展開追行を遂げて行つたものと認められる。従つて長期にわたる捜査の過程においては或は関係者の或る者は途中で退き、或は他の者が新たに加わつたとしても事件の捜査機構は一つの有機的組織体として活動し、その違法性及びそれに対する認識は承継せられて行つたものとみなければならない。

六なお最後に原告らは捜査官は捜査の段階で訴外大興商事から多数の工数簿(従業員の出勤簿)などの帳簿書類、伝票、操業証等を押収したが、これを隠匿していると主張する。なる程甲第三八〇号証(訴外三好吉光の証言)、同第三八一号証(訴外訴外酒井武の証言)、同第三八八号証(訴外鷹田成樹の証言)及び本件証拠調期日における証人酒井武の尋問結果からは芦別事件発生後一〜二ケ月後から捜査警察官は幾人か訴外大興商事に出入りして同訴外商事の帳簿、工数簿、操業日報等を正規の任意提出、領置、押収などの手続をとることなく、ただ事実上借用し、又一部返還したりして調査に使用していたことは認められるが、しかし他方又同二七年一〇月頃、右訴外商事が倒産した際経理係の訴外三好吉光は帳簿等の一部を札幌の本社の方に運んだことのあつたことも認められ、従つて同訴外商事にあつた金銭出納帳、工数簿、操業日報を初めとした帳簿書類等の多数が現在紛失してなくなつているにしてもそのうちのいずれか捜査官の手許に渡り、そこで紛失し、或は未提出のまま残つているのか、或はかようなことがないのか本件口頭弁論に提出された証拠の上からは結局明らかでないといわなければならない。ただ甲第一四六号証によれば検察官被告好田は第一審第四四回刑事公判で次のように述べている。「昭和二八年六〜七月頃芦原警部から工数簿がなくなつたということを聞いた。『工数簿が必要になつたが見えないので、探している』とか『あの時返えしたのでないか』『しばらく探したがないので結局返えしたんだろうということになつた』といつているのを聞いた」と。捜査官の証拠の保管、管理もずさんであつたことは明らかである。

三 検察官の起訴決定、刑事公判追行の違法性及び認識

一起訴決定の違法性及び認識

1  以上のような捜査の帰結としての同二八年九月一七日の訴外井尻、原告地主に対する鉄道爆破事件の公訴提起の決裁に際しては前記のような捜査の問題点がいずれも慎重に検討されたことは本件口頭弁論期日及び証拠期日における被告高木、同三沢の各尋問結果からも充分に推認しうるところである。そしてこの段階で収集されていた証拠から見ても前記証第一二九号発破器の存在を排除して、訴外井尻、原告地主らを芦別事件に結びつけ、合理的な疑いを越えて同人らの犯行への加担を立証できる見込みは存在しなかつた。(なる程訴外中村、同北崎らは前記したとおり捜査段階では証第二一号発破器の特徴に合う発破器を見たという供述をなしている。しかし前記第二、〔一〕で詳述したように右供述をもつてしてもとても証第一二九号発破器の訴外大興商事での存在、紛失、発見の事実を排斥しうるものではない)

検察官被告高木、同三沢、同金田らは、捜査段階におけると同様に証第一二九号発破器を隠匿し、それに代えて現場遺留品たる証第二一号発破器が訴外大興商事の六坑、三坑に存在し、それが訴外井尻によつて窃取されたことにした疑いが濃厚である。同二八年九月六日付訴外井尻、原告地主に対する窃盗事件起訴状(甲第一号証の三)によれば「被告人ら、(訴外井尻、原告地主)は共謀の上昭和二七年六月中旬頃芦別市旭所在の油谷鉱業所第三坑作業現場附近において大興商事芦別油谷鉱業所長大野昇保管にかかる同会社所有の鳥井式一〇発掛電気発破器一台を窃取したものである」と記載されている。

そして引続き前記のとおり検察官は同年九月一七日訴外井尻、原告地主に対し、電汽車往来危険罪、爆発物取締罰則違反罪でも公訴提起した。

2  通常公訴決定に際してはこれに伴いその後の刑事公判において公訴追行のために検察官として証拠によつて証明すべき真実の主張(冒頭陳述)及び刑事公判において取調べを請求すべき証拠の取捨選択が行なわれる。

(1) 第一審第一回刑事公判において検察官は冒頭陳述中で「同二七年六月中旬訴外大興商事の六坑、三坑で共用していた発破器が紛失した。右発破器は井尻正夫が窃取し、鉄道爆破に使用したものであり、現場遺留品の発破器と同一物である」と主張し(前記第一、二、(ハ)の記述のとおり)、かつ、現場遺留品発破器の証拠提出のほか右紛失の事実を証明するため訴外中村誠、同浜谷博義、同北崎道夫のみならず同福士佐栄太郎迄も証人として尋問請求することを決定した。(甲第四号証第一審第一回刑事公判における証拠の請求及び取調べに関する事項)

(2) そしてこれに合わせ、冒頭陳述からは「現場遺留品の発破器は訴外油谷鉱業所所有(前記1のとおり発破器窃取の起訴状では右発破器は訴外大興商事の所有と主張されている)の番号八七五〇号であり同二六年一一月頃訴外猿山が窃取し、訴外高橋を経て亜東組或はその他に売却されその先は不明であるとの事実、訴外大興商事六坑、三坑で使用していた発破器は一五三五九号であるとの事実をいずれも削除し、併せて右事実に沿う訴外猿山、同高橋関係の窃盗賍物罪関係捜査事件記録(甲第五三九号証ないし第五四四号証、第五四六号証ないし第五五九号証)、訴外油谷鉱業所所有の「電気機器故障及び受付の修理状況記入簿」(甲第五八七号証)、証第一二九号発破器自体、そして同発破器の存在を推測せしめる訴外酒井武所有の手帳(甲第五六七号証)、同北崎道夫所有の手帳(甲第五七〇号証)をいずれも証拠として刑事公判に提出しないことを決定した。(以上前掲甲第三号証、第四号証、第八号証第二回刑事公判調書中証拠の請求及び取調に関する事項、本件口頭弁論期日における被告三沢の尋問結果)

(3) そしてこれに合わせ、訴外石塚の捜査段階での供述と矛盾する訴外竹田源次郎所有の手帳(甲第五六八号証)訴外高橋金夫所有の手帳(甲第五六九号証)坑外操業日報(甲第五七三号証)を訴外徳田敏明の捜査段階での供述と矛盾する三坑七月分操業日報(甲第五七二号証)などいずれも検察官の主張に沿わずかつその維持しようとする証拠に矛盾するものはことごとく刑事公判に証拠として提出しないことにした。(以上前掲甲第三号証、第四号証、第八号証、被告三沢の尋問結果)

3  公訴の提起は、該事実につき、有罪判決を得る合理的な可能性がある場合でなければ、なすべきでない。なぜなら、起訴により被告人としての立場に立たされた者は、かりに究極的に無罪の判決を得た場合でも、その間精神的肉体的に著しい苦痛を受け、さらにその社会的名誉を害されるに至ること、論をまたないからである。したがつて、右のような有罪判決を得る合理的な見込みがないことを知りながら、あえて公訴を提起すれば、右起訴処分は故意による違法行為となり、右の見込みがないのに不注意でありと誤信して起訴した場合には、過失による違法行為となる。もつとも証拠上一定の事実が合理的な疑いを越えて立証されたとみるか否かについては、判断者ないし立場を異にする毎に、ある程度の個人差のあることを否定し難いから、公訴の提起が違法であるといえるためには、右判断が、右のような通常の個人差を考慮にいれてもなおかつ行きすぎで、経験則、論理則からしてその合理性を肯定することができない場合であることが必要である。そして、右判断の合理性を肯定しうるか否かは該行為の時点で、検察官が入手していた資料およびその段階で入手することを期待しえた資料の一切を総合し、客観的になすべきものである。以上の点に関する当裁判所の基本的見解は、松川国家賠償事件の控訴審判決(東高判昭和四五年八月一日判例時報六〇〇号三二頁)のそれとほぼ同一である。

以上の基準に照らして考察すると、前記1、2記載の経緯でなされた訴外井尻、原告地主両名に対する鉄道爆破事件の公訴提起が違法であつたことは明らかであり、しかも、右は、右両名に対する有罪判決を得る合理的な見込みの不存在を知りながら、あえてなされた疑いがあり、かりに右の点を看過してなされたとしても、少くとも重大な過失の存することは、とうてい否定することができない。(もつとも、被告らは、訴外井尻に対しては、第一審刑事公判において、鉄道爆破事件につき現に有罪の判決がなされたとの事実を援用し、本件について同訴外人および原告地主両名の有罪判決を得る合理的な見込みがあつたと主張する。たしかに、第一審刑事公判においては、その弁論終結間際に検察官から証第一二九号発破器が提出されたにも拘らず、判決において、訴外井尻が鉄道爆破事件につき有罪とされたことは事実であるが、右判決は、現場遺留品たる証第二一号発破器が、昭和二六年一一月ころ、訴外猿山らが油谷鉱業所から窃取した番号八七五〇号の発破器であること等、心証形成上きわめて重要と思われる事実を秘匿した状態でなされたこと(前記第二〔一〕、三(三)参照。なお、この段階で、検察官は、右猿山らが窃取した発破器が、処分先からすべて発見されて、本件との関連が否定された旨、明らかに事実に反する論告すらしている。)を無視できない。これらの事実関係が第一審刑事公判の段階で明らかとされておれば、第一審判決の結論も自ら異つたものとなつたであろう。現に、右事実関係の解明された第二審刑事判決において、右両名の本件との関連は明白に否定されており、今回あらためて本件の証拠関係を精査した当裁判所においては、いつそうその感を深くしたものである。)

二刑事公判追行の違法性及びその認識

1  第一審刑事公判の当初の立会検察官であつた被告三沢、同金田、訴外金子は前記のようにいずれも芦別事件の捜査自体又被告三沢、同金田はその公訴提起の決定にも関与していたものであり、又その刑事公判での訴訟行為も右起訴決定に際して定められた趣旨に従つて冒頭陳述をなしかつ証拠申請、証拠物、証拠書類などの提出、証人尋問などを行ない刑事公判の追行に当つたものであり、その間に違法性及びその認識に何らの変化もない。

そしてその後第一審刑事公判に立会い、又第一審判決に対して控訴申立をした検察官訴外堂ノ本武、第二審刑事公判に立会つた訴外吉良敬三郎、同押切徳次郎、同寺沢真人、同木暮洋吉(右立会関係は当事者間に争いがない)らも第一審論告(甲第二一一号号証)控訴趣意書、第二審検察官の弁論要旨(以上の主張するところは甲第五六六号証第二審刑事判決参照)によればその後法廷で提出された証拠(弁護人提出のものも含め)によつて若干の主張の差異はあるものの(発破器についての主張の変化については前記第二〔一〕参照)訴外井尻、原告地主を芦別事件の主犯人と断定して公訴を維持しようとしている限りその基本的態度には何らの変化も見られない。

2  被告三沢は本件口頭弁論期日における尋問結果中で、前記した公訴提起決定の際になした検察官の証拠の取捨選択、及び刑事公判での証拠提出等について大要次のように述べている。

「検察官が証明力なしと判断した証拠物等はそれが仮に被告人らにとつて有利な証拠となりうる場合でも、検察官としては証拠調べを請求しない。……検察官の収集した証拠の中に被告人に有利なものがあつても検察官は必ずしも公判廷に提出する必要もないし又義務もないというのは検察官に大体共通した考え方であつて当事者主義の上から云つても当然である」と。

3  たしかに、現行刑事訴訟法は、いわゆる当事者主義を基調としている。それは、検察官に対し、収集したすべての証拠の提出を義務付けたり、一律全面的な証拠開示の義務を課したりするものではない。しかしながら、このことは、検察官に対し、いかなる場合においても、手持ち証拠の開示義務を、まつたく免れさせるものではなく、一定の場合に、右開示が義務的となることは、すでに最高裁判所の判例(最決昭和四四年四月二五日刑集二三巻四号二四八頁、同二七五頁)も認めている。のみならず、右判例の場合のように、裁判所の具体的な訴訟指揮権に基づく開示命令が発せられていない場合であつても、少くとも、手持ち証拠のうち証拠物ないしこれに準ずるものについては、訴訟のできるだけ早い段階で、これを相手方に開示し、その利用に供する機会を与えなければならないと解するのが相当である。その理由は、つぎのとおりである。

(1) 純粋の当事者主義のもとでは、真実の発見は、原則として、相対立する当事者が、たがいに、自己に有利な証拠を収集し、提出し合い、たがいに、相手方の証拠の価値を弾劾し合うという形で行なえば足り、一方の他方に対する証拠の事前開示義務の観念を容れる余地はない。しかし、現行刑事訴訟法は、右のような意味における純粋の当事者主義を採用しているのではない。検察官は公益の代表者として、裁判所に、法の正当な適用を請求する義務(検察庁法第四条)を負担する。したがつて、検察官は、自己の収集した証拠をできる限り客観的、合理的に総合評価し、有罪判決を得る合理的な見込みがある場合でなければ、公訴の提起ないしその追行をなすべきでないのであつて、いやしくも、右手持ち証拠のうち、自己に有利なもののみをことさら過当に評価し、あるいは被告人に有利なものをことさら過少に評価して、恣意的な心証に基づく公訴の提起、追行をしてはならない。もしも、検察官が右のような義務に違反し、手持ち証拠のうち自己に有利なもののみを法廷に提出し、そうでないものはこれを秘匿したまま公訴を追行したとすれば、とうてい裁判所による正当な法の適用は、期待されえなくなるであろう。(このことは、弁護人の事実調査能力が、強大な捜査権を有する検察官に比し、未だ十分なものといえないわが国の実情からすれば、十分強調されて然るべきであるし、また、検察官が秘匿するものが、代替性のない証拠物であるときはその弊害は、いつそう顕著なものとなる。)かかる意味において、検察官が、手持ちの全証拠を客観的、合理的に評価すれば、公訴の提起、追行をなすべきでないと思われる場合に、それにも拘らず、被告人に利益なものを、ことさら秘匿して公訴を提起、追行したとすれば、その後の証拠の不提出等の個々の訴訟行為の違法性を論ずるまでもなく、以後の一切の行為は全体として違法性を帯びると解するのが相当である。以上の点は、いわゆる証拠開示義務以前の問題である。

(2) 検察官が、主観的には重要でないと判断した証拠が、客観的には重要な証拠価値を有する場合がある。検察官は、前記のように、できる限り、証拠を客観的に評価すべきであるが、立場上、ある程度その評価に主観の混入することを免れ難いからである。かかる場合、右判断の客観性を担保し、ひいては、事案の真相を法廷において明らかにするためには、検察官が当面立証上重要でないと考えた手持ち証拠を、被告人、弁護人に開示し、その利用の機会を与えるのが、もつとも公正な態度というべきであろう。しかしながら、この場合においても、右のような手持ちの全証拠を一律に開示するということになると、逆に、被告人側における罪証隠滅等の弊害の生ずることも考えられるので、検察官に対し、全事件につき一律に、全面的な証拠の事前開示の義務を課するのは相当でないが、少くとも、代替性を有せず、しかも開示することによる罪証隠滅等の弊害の考え難い証拠物、ないしこれに準ずるものについては、検察官においてたとえ事件との関連性が薄いと判断した場合でも、その押収を解かずに押収を継続している限り、これを開示する義務を有すると解するのが相当である。

(3) 以上のような証拠関示の義務は、刑事訴訟法の明文に根拠を置くものではないが、現行法の下における公益の代表者としての検察官の性格、および当事者主義を基調としながらも、いわゆる実体的真実の発見を究極の目標とする現行法のもとにおける刑事訴訟の構造等を合理的に勘案すれば、容易に理解できるところである。

4  本件における捜査、公訴の提起、追行をその全体の流れとして通観すると、検察官の起訴後の公訴追行行為は、前記(1)に述べた意味において、故意による違法性を具備する疑いが強く、かりに右(2)の場合であつたとしても、前記証第一二九号発破器のような重要な証拠物を、弁護人被告人らに対し、その存在を知らせる等の措置すらとらずに公訴の追行にあたつた限度において、重大な過失を免れないというべきである。

三検察官の刑事公判終期における証拠物の提出

1  前記第二、〔一〕、四、2で記述したとおり検察官は弁護人の要請により第一審第五九回刑事公判(昭和三一年六月五日)で一五三五九号発破器(証第一二九号)を法廷に提出した。甲第五六五号証(第一審刑事判決)によればこのため訴外井尻、原告地主は第一審刑事判決により三坑から発破器一台を窃取したとの前記公訴事実につき無罪となつた。

2(1)  検察官は更に第二審刑事公判において裁判所及び弁護人の要請により

イ 第三一回刑事公判(同三七年四月一八日)において訴外猿山洋一、同高橋鉄男に対する発破器窃盗及び賍物牙保事件に関する捜査等一件記録(甲第五三九号証ないし第五四四号証、第五四八号証ないし第五五二号証、第五五六号証ないし第五五五九号証)及び電気機器故障及び受付修理状況記入簿(甲第五八七号証)を(なお右提出については甲第三二八号証、第三三〇号証)

ロ 第三二回刑事公判(同三七年四月一九日)において訴外高橋源之丞、同田口稔、同石井清、同大沼外美に対する発破器窃盗、賍物故買事件に関する捜査等一件記録(甲第五四六号証、第五四七号証、第五五三号証ないし第五五五号証)を(右提出に関しては甲第三三三号証ないし第三三五号証)

ハ 第四二回刑事公判(同三八年五月九日)において、いずれも訴外大興商事の金銭出納簿、六月分六坑副斜坑操業日報(甲第五七一号証)、七月分三坑操業日報(甲第五七二号証)、七月分坑外操業日報(甲第五七三号証)七月分露天関係操業日報(甲第五七四号証)、昭和二七年大興商事坑員出勤簿、七月分第二露天個別所得調を(提出については甲第三七〇号証ないし第三七二号証)

ニ 第四三回刑事公判(同三八年五月一三日)において酒井武所有の手帳(甲第三六七号証)を(提出については甲第三七七号証、第三七九号証)

ホ 第四四回刑事公判(同三八年五月一四日)において六月分三坑堅入工数簿(甲第五七八号証)同七月分工数簿(甲第六七九号証)を(提出につき甲第三八二号証ないし第三八四号証)

ヘ 第四五回刑事公判(同三八年六月一七日)訴外竹田源次郎所有の手帳(甲第五六八号証)、同高橋金夫所有の手帳(甲第五六九号証)、同北崎道夫所有の手帳(同五七〇号証)を、(提出については甲第三九一号証ないし第三九三号証)

各提出した。

(2)  甲第五六六号証(第二審刑事判決)によれば前記一五三五九号発破器は単に訴外井尻、原告地主の発破器窃盗の公訴事実のみならず又、右訴外猿山外一名、同高橋源之丞外三名の窃盗、賍物罪等捜査一件記録とともに訴外井尻、原告地主の本件芦別鉄道爆破事件の公訴事実自体を覆すに足る証拠となり、又前記七月分三坑操業日報、同月分坑外操業日報、六月分三坑堅入工数簿、同七月分工数簿、訴外高橋金夫所有の手帳は訴外石塚守男、同徳田敏男らの捜査段階での各供述を全面的に否定し、共に本件芦別事件を訴外井尻、原告地主の所為に帰そうとした検察官の主張を完全に否定しさつたことを認めえ、そして更にその他の訴外酒井武、同竹田源次郎、同北崎道夫所有の各手帳も右各証拠に劣らず裁判所の真実発見に役立つたことを認めうる。

第六訴外井尻正夫、原告地主照らの蒙つた損害の賠償、その他

一訴外井尻正夫、原告地主照らのうべかりし利益の喪失及び慰謝料

一当事者間に争いのない事実

(一)(1)  訴外井尻、原告地主が共に芦別事件に関して逮捕されたのが昭和二八年三月二九日であり、当時訴外井尻は二九才原告地主が三三才であつたこと。

(2)  訴外井尻は同二三年六月から芦別町所在の訴外明治上芦別鉱業所で坑内夫として勤務し、同二五年二月落盤事故のため第五腰椎脱臼骨折の重傷を負い治療を受けていたが、同二六年六月同訴外鉱業所をレッドパージのため解雇され、同二七年一月からは訴外大興商事(当時石狩土建といつていた)に坑内夫として勤務するようになり、同時に同訴外商事の第二飯場(いわゆる井尻飯場)の責任者となつていたこと、そして訴外井尻は芦別事件後の同二七年八月一〇日訴外石塚守男、同藤谷一久、同中村誠、同岩城定男、同米森順治らとともに訴外大興商事を解雇され、その後暫く失業していたが同二八年一月から芦別市所在の訴外北振建設工業株式会社に勤務していたこと。

(3)  原告地主は同二三年六月芦別町所在の鹿島組の坑内掘進夫を、同年八月から前記訴外明治上芦鉱業所の坑内軌道夫として働いていたが、同二四年八月政治活動を理由に解雇され、その後肺結核のため療養し、芦別町役場から扶助を受けていたが病気回復し、同二八年三月からは騰写印刷業を始めるため北海道庁から生業資金二万円を借り受け準備中であつたこと。

2(1) 訴外井尻、原告地主は芦別事件に関して刑事第一審では六三回、第二審では四八回(訴外井尻は第二審第一七回公判後死亡)の合計一一一回の公判を受けたことは被告らの弁論の全趣旨からも争わないものとみられ、又第一、二審刑事公判を通し訴外井尻(は第一審のみ)、原告地主は共に芦別事件に関し懲役一〇年の求刑を受け、第一審刑事判決では訴外井尻が懲役五年、原告地主は鉄道爆破関係については無罪となつたが他の罪により懲役一年の刑の言渡しを受けたこと、検察官はこの判決を不服として控訴し、第二審刑事判決に至るまで公判が続いたこと、この間訴外井尻は七年二ケ月、原告地主は一〇年九ケ月鉄道爆破事件の被告人の立場に立たされたこと(前記第一、一、三で記述したとおり)

(2) 訴外井尻、原告地主が同二八年三月二九日に逮捕されて以来、最終的に釈放されたのは共に同三一年五月一八日であり、その間訴外井尻が六四六日間、原告地主が一、一二三間勾留されたこと、又右逮捕当時訴外井尻の妻原告井尻光子は妊娠中であつて他に幼児もあつたこと、原告地主も妻の死亡後で自己の長男武雄(原告)の保護者もなかつたこと

以上の各事実も当事者間に争いがない。

二、訴外井尻正夫、原告地主照の収入及びうべかりし利益

(一)  原告井尻光子の尋問結果からその成立の真正を認めうる甲第五八八号証(訴外北振建設工業の証明書)、甲第五八九号証(北海道生業資金貸付原簿)、原告井尻光子、同地主照の各尋問結果及び弁論の全趣旨を綜合すると、

1イ 訴外井尻正夫は昭和二八年一月から三月までの間前記訴外北振建設工業に勤務しその間一ケ月三〇、〇〇〇円の収入をえていたこと

ロ 原告地主の開業準備中であつた謄写印刷業は同二七年当時孔版印刷料は一枚につき孔版筆耕料普通印刷物で二五〇円、一日四、五枚仕上げることができ、原告地主と同程度の技能をする者で一ケ月約三〇、〇〇〇円の収益を上げえたこと

2 訴外井尻、原告地主は逮捕された同二八年三月二九日以後保釈となつた同三一年五月一八日までの間就業することは不可能であつたこと

の各事実を認めることができる。

(二)1  訴外井尻、原告地主両名の身柄の拘束は、前記第五〔二〕二(三)記載のとおり、おそくとも昭和二八年六月一日以降違法なものとなつたといわざるをえないから、右同日から保釈となり身柄釈放された同三一年五月一八日までの期間(三五ケ月と一八日間)についての得べかりし利益についてその回復を請求することができる。

2  原告らは、保釈後訴外井尻、原告地主の両名は就職を求めたが、芦別事件の被告人として刑事公判が継続していたため、就職口があつても被告人であることが明らかになると採用を取り消されるなど就職不能であつた、生活保護を含め若干の収入があつても、そのかなりの部分は訴訟の準備、調査活動を支えるために支出されたとして、訴外井尻については同三五年六月二三日死亡するまで、原告地主については無罪の判決が確定した同三九年一月四日までの期間についても得べかりし利益の回復を求めているが、その間職を得て収入を得ることが不可能であつたとはいえず、減収の割合についても証拠上明らかでない以上得べかりし利益の請求としては失当といわざるをえない。(右のような事情は後に慰藉料を算定する際にしん酌すれば足りる。)

(三)  従つて、訴外井尻、原告地主両名の失つた得べかりし利益は、それぞれ三〇、〇〇〇円×(三五+三〇分の一八))カ月一、〇六八、〇〇〇円となる。

三訴外井尻正夫、原告地主照の慰謝料

(一)  甲第五六五号証(第一審刑事判決)、同第五六六号証(第二審刑事判決)、原告地主照、同井尻光子の各尋問結果、弁論の全趣旨のほか前記一の当事者間に争いのない事実を綜合すると

(1) 前記のとおり訴外井尻は六四六日間の、原告地主は一、一二三日間の勾留を受けたがその間右両名に対してなされた捜査官の取調べは違法、不当なものであつたことは前記第四及び第五で記述したとおりであり、又無実のまま芦別鉄道爆破事件の犯人とされるという著るしい精神的苦痛及び肉体的苦痛が与えられたこと、しかも訴外井尻は逮捕された当時原告光子は妊娠しており、同二八年五月二〇日次男光則(原告)が生れた時にも会うことも出来ず、又原告地主照は妻の死亡後であつて長男武雄(原告)の保護者がなく警察署に保護されその後里子に出されなければならないという状態になつたこと

(2) 又第一審、第二審刑事公判では訴外井尻は死亡迄八〇回、原告地主は一一一回も公判期日に出頭しなければならず、その他公判準備等も含めると出廷した回数はさらにそれを上回るものであつたこと、そして第一審刑事裁判では訴外井尻は懲役五年の、原告地主は懲役一年の刑の言渡を受けたこと、右裁判で原告地主は鉄道爆破の公訴事実については無罪になつたとは云え、判決理由中では訴外井尻と共謀して実行行為も共同で行つたとされ、実質的には全部有罪と同じ社会的評価を受けなければならなかつたこと、

そして訴外井尻は七年二ケ月、原告地主は一〇年九ケ月間芦別鉄道爆破事件の被疑者、被告人としての立場に立たされ、長期の刑の言渡しを受ける危険があつたこと、そしてその間右訴外井尻、原告地主の両名は自己の生活を賭して自己の無実を明らかにすべく奔走しなければならなかつたこと

(3) 前記一、(一)、1、(2)で記述したとおり訴外井尻は逮捕される前既に腰椎の負傷があり、これが完治していなかつたが長期の勾留の結果右負傷を著しく悪化させていたこと、しかしその間に右負傷にもかかわらず捜査官による取調べが続き、後日刑事公判に提出された多数の供述調書が作成されたこと、そして刑事公判になつてからも右症状のため同訴外人はしばしば出廷さえできないことや、出廷しても長椅子に横臥して公判を受けなければならないこともあつたこと、又同訴外人は勾留中中耳炎、痔、背髄、盲腸、鼻の手術をしたこと、そのため保釈出所後も身体障害者となり働らけないために生活保護を受け完全に回復するに至らぬまま自動車からの転落事故により死亡するに至つたこと

(4) 訴外井尻、原告地主は前記のとおり長期間芦別事件の被告人として取扱われ、逮捕の際又刑事公判の際にしばしば鉄道爆破の犯人として新聞、ラジオなどにより全国に報道され、このため社会的にも犯人とみなされ、その家族らもこの偏見の中で残神的に苦しい生活を余儀なくされるなど右訴外井尻、原告地主両名の名誉は著しく毀損されたこと

の各事実を認めることができる。

(二)  以上のような訴外井尻、原告地主の受けた長期にわたる精神的、肉体的苦痛及び前来記述のような捜査、起訴、刑事公判追行行為性の違法、捜査官の故意、過失の態様、程度その他諸般の事情を考慮すると、訴外井尻、原告地主の受けた刑事補償金額を考慮に入れてもその苦痛を慰謝するために訴外井尻に対しては三、〇〇〇、〇〇〇円、原告地主に対しては二、五〇〇、〇〇〇円支払うのが相当である。

四訴外井尻正夫、原告地主照の家族の受けた損害について

(一)  甲第四九四号証(訴外井尻の検調)、原告井尻光子の尋問結果及び弁論の全趣旨のほか前記当事者間に争いのない事実を綜合すると

1 訴外井尻正夫の家族は妻光子(原告昭和二二年婚姻)、長男真光(原告同二二年出生)、長女達子(同二四年出生、同二六年死亡)、次女芳子(同二六年出生、同三六年死亡)、次男光則(原告同二八年出生)、三女雪江(原告、同三三年出生)であること

2 原告井尻光子は夫正夫が逮捕された当時妊娠中であり、そのため受けた精神的な衝撃は極めて大きかつたこと、その後夫正夫の勾留中はもとより、保釈後も自らの手で家計を支えなければならず、そのため原告光子は女の身でありながら失業対策事業に従事し、水道堀りなどの現場で働らき、あるいは炭坑の坑外作業を行うなど重労働を続け、途中生活に窮し生活保護を受けていた期間もあつたこと、

このような生活のためその間次女芳子を病死させ、自分も又肺結核のため入院するなど夫正夫が無実の罪を被告人としてその責を問われたため長期間同居を妨げられていたばかりか、第二審刑事公判継続中に夫を失い著しい精神的、肉体的苦痛を受けたこと

の各事実を認めることができる。

(二)  甲第五三三号証(原告地主照の司調)、原告地主照の尋問結果及び弁論の全趣旨のほか前記当事者間に争いのない事実を綜合すると

原告地主照の家族は長男武雄(原告、同二三年出生、同三九年訴外渡辺昭の養子になる)次男敬(原告、同二六年出生)でありことに右原告武雄は先に母と死別し、原告地主が逮捕されたため残された唯一の保護者を失い、警察署に保護され、その後里子に出されるなど不幸な幼年時代を送らなければならなかつたことを認めることができる。

(三)  以上の各事実を考慮するときは、原告井尻光子、同渡辺武雄の両名に対しては、独自の慰謝料請求権を認めるのが相当である。その余の原告井尻真光、同井尻光則については、長期にわたり父との別離を余儀なくされたとはいえ、母親光子の愛情ある庇護のもとに育てられたであろうこと、原告井尻雪江は訴外井尻正夫が保釈になつた後に出生したものであること、原告地主敬は母と死別した後祖母にひきとられ、その保護のもとにあつたこと(甲第四三三号証、乙第一六三号証)からすれば、生命侵害の場合にのみ、被害者(死者)の一定の遺族に対し固有の損害賠償請求権を認めた民法第七一一条の趣旨に鑑み、右原告らについて未だ固有の法益が侵害されたものとして独自の損害賠償請求権を認めるに至らない。

(四)  前記(一)、(二)に認定した各事実その他諸般の事情を考慮して、原告井尻光子に対しては一、〇〇〇、〇〇〇円、原告渡辺武雄に対しては三〇〇、〇〇〇円の慰謝料を支払うのが相当である。

五損害額の合計

(一)  訴外井尻正夫は昭和三五年六月二三日死亡したため、同訴外人の前記得べかりし利益の喪失による賠償請求権及び慰謝料請求権は原告光子、同真光、訴外亡芳子、原告光則、同雪江に相続された。そして右各相続人の相続分は妻である原告光子三分の一、その余の各子らは各六分の一宛てとなる。しかして次女訴外芳子は同三六年一一月二九日死亡しているのでその相続人は母である原告光子となる。

従つて訴外井尻正夫の前記得べかりし利益の喪失損害一、〇六八、〇〇〇円及び慰謝料三、〇〇〇、〇〇〇円の計四、〇六八、〇〇〇円は原告光子に二、〇三四、〇〇〇円、その余の原告真光、同光則、同雪江に各六七八、〇〇〇円宛て相続されたことになる。

(二)  従つて原告らの受けるべき各損害賠償の額は

(1) 原告井尻光子、一、〇〇〇、〇〇〇円(慰謝料)+二、〇三四、〇〇〇円(相続分)の合計三、〇三四、〇〇〇円

(2) 原告井尻真光、同光則、同雪江は各者において六七八、〇〇〇円(相続分)

(3) 原告地主照、一、〇六八、〇〇〇円(得べかりし利益の喪失)+二、五〇〇、〇〇〇(慰謝料)の合計三、五六八、〇〇〇円

(4) 原告渡辺武雄は三〇〇、〇〇〇円(慰謝料)

となる。

〔二〕 被告国以外の被告らの損害賠償責任について

一 被告国は、公権力の行使に当る公務員の職務執行が違法である場合において、国家賠償法第一条による損害賠償責任は当該公務員の属する国又は地方公共団体のみがその賠償の責任を負うものであつてその公務員が個人として賠償責任を負うものではないと主張する。(準備書面(一)中第一)

二 たしかに、公務員の故意過失により、国家賠償法の適用の対象となる違法行為の行なわれたすべての場合に、国又は公共団体と並んで加害公務員の個人責任を認めることには疑問があるが、少くとも、右違法行為が、公務員の故意又は重大な過失によつて行なわれた場合についてまで、右公務員が個人責任を免れると解するのは相当でない。なぜなら、まず、もしもかかる場合についてまで、加害公務員の個人責任を否定するとすれば、公務員は、公務員たるが故に、民事責任の面において一般人に比し過当な保護を受けることになつて著しく権衡を失する。のみならず、公務員による職務執行の適正は、同法第一条第二項による求償権の行使、その他国家機関内部における規律によつて、一応これを担保することが可能であるが、それのみでは必ずしも十分とはいえず、右のような場合に被害者たる国民から直接その責任の追及を許すことが、右の観点からも必要であると認められる。もつとも右のような解釈に対しては、十分な賠償能力を有する国又は公共団体が賠償の責に任ずる以上、そのほかに、公務員個人の責任を認める必要はないとの反論が一応は可能である。しかしながら、国家賠償ないし不法行為に基づく損害賠償制度の趣旨を、被害者の純経済的救済という点のみに止めることなく、これに公務執行の適正を担保する機能をも営むものとして理解することは、必ずしも、右制度の趣旨を不当に拡大したものとはいえないと思われる。しかして、かくして肯定される公務員個人の損害賠償責任は、民法第七一五条の場合における通説判例の見解の趣旨に準じ、使用者である国又は公共団体の責任と不真正連帯の関係に立つと解するのが相当である。

三、被告国を除くその余の被告らが、本件捜査、公訴の全過程において果たした役割および当時の地位等は、前記第一、四および第五〔一〕に各記載したとおりである。右各事実に、被告高木、同三沢の各本人尋問の結果(ただし、被告高木についは、後記措信しない部分を除く。)を総合すると、被告三沢、同金田は、本件鉄道爆破事件の主任検察官ないしこれに準ずる地位にあつて、訴外検察官金子誠二らとともに、中心となつて、本件捜査、公訴の追行にあつたこと、被告高木は、当時札幌地検次席検事の職にあり、部下の検検官を指揮して右捜査の遂行にあたつたものであり、その都度被告三沢らからの報告によつて、捜査の進展状況を知悉しておりその後、札幌高検へ配置替えになつた後においても、鉄道爆破事件の起訴不起訴の決定に関与する等、終始重要な地位にあつたこと、検察官は、原告地主および訴外井尻の身柄拘束が違法となつた昭和二八年六月一日以降においてもなお、右両名の身柄を釈放するための何らの挙に出でず、実質上の強制捜査を続行し、その後、前記のとおり、発破器窃盗および鉄道爆破事件の各起訴に踏み切つたこと、右捜査および公訴の提起は、被告三沢、同金田、訴外金子らによる関係証拠の詳細な検討を経て行なわれたもので、右三名が、当時すでに前記一五三五九号発破器の発見された事実を知悉していたことは明らかであり、被告高木の前記のような地位、役割からすれば、右の点は同被告についても同様であると考えられること(もつとも、被告高木は、本件証拠調期日における尋問において、「起訴当時、福士が失くしたという一五三五九号発破器が発見された事実は知らなかつた。このことは、二審になつてから、寺沢検事からはじめて聞いた」旨供述しているが、右供述は、被告三沢本人尋問の結果に比照し措信できないこと前記のとおりである。)等の事実が認められ、右各諸点に徴すれば、被告高木、同三沢、同金田の三名が、前記認定にかかる主要な違法行為(昭和二八年六月一日以降の前記両名の違法な身柄拘束およびその後における両名に対する発破器窃盗、鉄道爆破事件の各公訴提起)につき、故意または重大な過失により加担したことを容易に推認することができる。これに反し、警察官被告田畠、同中村、検察官被告好田の三名については、当裁判所の認定した主要な違法行為が、前記両名が火薬類取締法違反で起訴された後のものであること、前記雷管に対する作為についても、同被告らがこれに加担していたと認めるべき資料がないこと、副検事である被告好田は、本件全立証によつても、本件捜査にあたり、重要な役割を与えられていたとは認められないこと、等の諸点にかんがみ、前記違法行為につき、故意または重大な過失によつて加担したと断定するに至らない。

〔三〕 被告国の時効の抗弁について

一、被告国は更に、仮に原告らの主張するように訴外井尻、原告地主の逮捕、勾留、起訴及び公訴追行について被告らに不法行為があつたとしても訴外井尻、原告地主は既にその当時これらの事実、それによつて受けた損害及びその加害者を知つていたのであるから、これらの時効はいずれもその個別的な不法行為の終了直後から進行し、それぞれ三年の時効により損害賠償請求権は消滅していると主張する。

二、しかしながら本来刑事事件の捜査の目的は最終的には公訴を提起して犯罪者をして正当な刑罰を受けしめることにあり、その後の訴訟活動をも含めてこの目的に向つて追行される合目的全一体的な組織活動であると考えられる。そしてこの訴追活動の終了は一応刑事判決の確定である。従つて本件芦別事件における原告らの損害賠償請求権の消滅時効の進行開始日は右事件の第二審刑事判決の確定した昭和三九年一月四日の翌日である同月五日からである。被告国の抗弁は採用しない。

〔四〕 原告らの謝罪広告請求について

原告らは更に謝罪広告の新聞掲載を求めているが、本件芦別鉄道爆破事件についてはすでに無罪判決が確定し、当時そのことが全国に広く報道され、以来八年の歳月を経過し、訴外井尻、原告地主の名誉は回復されたものと認められるから、(本人の死後謝罪広告請求権が相続されると解する余地はないから、原告井尻光子、同真光、同光則、同雪江の請求はこの点においても失当である。)原告地主の謝罪広告の請求はその必要ないものとしてこれを棄却する。

結語

よつて原告らの本訴請求は被告国、同高木、同三沢、同金田が連帯して原告井尻光子に対して三、〇三四、〇〇〇円、同井尻真光、同井尻光則、同井尻雪江に対し各六七八、〇〇〇円、同地主照に対し三、五六八、〇〇〇円、同渡辺武雄に対し三〇〇、〇〇〇円及びこれに対する訴状送達の日の翌日である被告国、同三沢は昭和四〇年六月二四日からの、被告高木、同金田は同月二五日からの各支払ずみに至るまでの年五分の割合の遅延損害金の支払を求める限度で理由があるので認容し、これを越える部分はその理由がないので棄却する。なお訴訟費用については民事訴訟法第八九条、第九二条、第九三条により訴訟費用中一〇分の三を原告らの連帯負担とし、その余を被告国、同高木、同三沢、同金田の連帯負担とし、被告国に対する仮執行宣言については同法第一九六条第一項により原告井尻光子は六〇〇、〇〇〇円の、同井尻真光、同井尻光則、同井尻雪江は各自一三〇、〇〇〇円の、同地主照は七〇〇、〇〇〇円の、同渡辺武雄は六〇、〇〇〇円の各担保を供するときはその原告は仮執行をすることができ、被告高木、同三沢、同金田に対する仮執行宣言および被告国に対する仮執行免脱宣言は相当でないのでいずれもこれを附さないことにする。

よつて主文のとおり判決する。

(福島重雄 木谷明 石川善則)

別紙(謝罪文文案)

謝罪文

地主照、故井尻正夫両名は全く無罪であるのに国及び捜査、公判に当つた公務員は故意ないし重過失で芦別鉄道爆破事件の被告人として捜査、起訴し、一〇年間公判を継続しました。

国及び捜査、公判にあたつた公務員は無実の両氏その家族及び両氏の救援活動にあたつた多数の人々に精神的、肉体的、経済的損害をおかけしたことを謹んで謝罪するとともに、深く反省し、今後かかる過ちを繰返えさないことを誓います。

昭和   年月日

右代表者法務大臣 前尾繁三郎

検察官 高木一

元検察官 三沢三次郎

元検察官 金田泉

検察官 好田政一

元警察官 田畠義盛

警察官 中村繁雄

地主      照殿

井尻正夫氏相続人

井尻光子殿

同 井尻真光殿

同 井尻光則殿

同 井尻雪江殿

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